第12話

  朝。人の動く気配で目が覚めた。眩しくて数秒間、目を開けられなかった。いつの間にか起床時間になっていたのだ。

 がばりと布団を跳ね上げ、身を起こした。ひょっとして、自分が眠っている間に出動があったのではないかと不安になったのだ。

 横になってから今まで、全く記憶がない。熟睡してしまったらしい。

 仮眠室の照明はすでに点灯され、ベッドに横たわっている者はいなかった。数人が布団をたたんでいるだけだ。

(まさが、また置いて行かれてしまったなんてことはねえよな)

 焦燥感に急き立てられ、慌てて布団をたたみ、事務室へ向かった。

「よう、ゆっくり休めたか」夏木田が自席でお茶を飲んでいた。人知れず、ほうと安堵のため息をつく。

 おはようございます、と和人は頭を下げる。何人かのおはようという声が下げた頭に届いた。

「皆さん、休んだんですか」

「ああ、心配すんな。三時前には皆休んだよ。無理して起きていたって何にもなんねえし。出動あったら大変だべ。へろへろの状態だばなんもできねえべ」

 夏木田の言葉を聞き、和人は大きく深呼吸をした。

 パーテーションを挟んだ予防課席では、眠そうな顔の水森が頬杖をついてテレビを観ているのが見えた。欠伸をかみ殺している。女性にはきついのだなあと同情にも似た思いが湧いた。


 掃除開始の合図が当直からなされ、和人も動き出した。

 軽く体操をしてから各々持ち場につく。起床後、急に身体を動かして事故など起こさぬようにとの配慮らしいのだが、仮眠中の出動などはどうなるのだろうかと疑問がわく。夏木田に問うと、そんなこと知るかとけんもほろろに却下された。

 和人の清掃担当区域は、一階から三階までのトイレ。便所掃除である。掃除を終え、朝食を済ませると交代の時間だ。ようやく実務実習のゴールが見えてきた。

(最後の最後は充実したったなあ)

 ブラシを持つ手が軽い。実習は、あと二時間もない。カウントダウンに入った。出動もしたし、思い残すことはない。自然と頬が緩む。

 掃除を終え、事務室を覗くと、大隊長と中隊長、指揮担当の三人が、深刻な表情で警防課の机を囲んでいた。当務員の半数以上が遠巻きに様子を窺っている。

「なんかあったんだすか」

 夏木田に尋ねた。六文字、水森の姿がなかった。あの二人のことだから食堂にでも行ったのだろうと和人は思った。

「事態は予定とは大分違う方向に向かっているらしい」

「なんのことだすか」

「おめえのことだ」

「へ」動揺した。

「昨日の火災だよ。活動報告書におめえのことを書いたのさ。当然だよな。正規の隊員として活動したんだからよ」

 そのことなら知っている。仮眠に入る前に、褒賞事案になるかもなと白島にほのめかされた。

「で、褒賞事案として上申することになったのよ」

「はい」うんうんと和人は頷いた。

「ところがよお、今さっきだ、本部からクレームが入ったのよ」

 苦虫を噛んだような夏木田の表情を、和人はじっと見つめた。

「ど、どんなクレームすか」

 夏木田は、大きく息を吸い込み、胸を膨らませた。

「実習生を実災害に実動させていいのか、だと。正規に配置されていない消防学生を、正規の隊員として扱っていいのか、だとさ」

 吸った息を一気に吐き出した。

 和人には意味がよくわからなかった。首を傾げる。

「わがらねが。つまりだな、お前は実習生。あくまでお客さんってわけなのよ。正規の隊員プラス実習生で出動しなくちゃだめなんだとよ。で、実習生は、災害に出動したとしても、傍で見学していなくちゃいけねえんだとさ」

「え、そ、そうなんですか」

 知るか、と夏木田は吐き捨てるように言った。

 和人はがっかりした。飯島の鼻を明かすことができなくなったこともそうだが、実は災害活動に参加できなかったのだとわかると、この実習はいったい何のためなのかということに行き着くではないか。

「それだけじゃない」

「それだけじゃない、って」

「褒賞なんてとんでもねえ、逆に監察事案になるかもしれねえってよ」

「な、なしてだすか」

「掟破り、規律違反だからだ」

 和人は、これまでの自分を支えていたものが、急速にしぼんで行くのを感じた。

「ほんとにそうなんですか」

(そこまでしねくたって。もう少し融通を利かせてくれたっていいと思うんだけどな、大目に見てくれてもいいと思うんだよな)

「例の一件があったからだ」

「なんですか」

「ほれ、どっかでこのあいだ死んだだろ。活動中の隊員が。ひとり」

 一年前の事故の件のことだと分かった。しかし何故。

「要するに、規律の保持ってことだろう。未熟な学生を、まだ正規に任命されていない立場の者を、危険な状況で働かせたということがまずいと言いたいんだろう。怪我でもしたらどうするんだということと、これを許したら、どこの署でも実習生を使うようになるってことなんだろう。若いから、ロートル隊員よりも動けるし」

「そう、なん、です、か」まあ、皆、若くはないよなと思う。

 和人はなんともやるせなくなり、窓に目をやった。目に入る色は、灰色だけだった。


 大隊長、と誰かの声がした。

「本部は俺たちの粗探しばかりしてるんでねすか。慎重すぎでねすか」

 口火は切られたようだった。所属を何だと思っているのだ、現場で動いている隊員の辛さを知っているのか、つべこべ言ってねえで火ぃ消せよ。次々と意見が飛び交った。しかしそれは、意見というよりも本部に対する不満だった。

「本部の人間って、自分たちは何様だと思っているんだべ。現場の人間どご使い捨ての駒かなんかだと思っているに違いねえ」

「んだんだ」

「住民の立場に立てと言ってはいるが、現場で動く隊員の立場に立って考えているのか」

「んだ、その通りだ」

「型どおりの活動をしていればいいってのか。教科書通りの、よ。同じ災害なんてのがあるわけねえべ。型にはまるわけなのねえべ。実際に現場で動いていねえ、頭でっかちの奴らだからそんたごど言えるんだべ。臨機応変の対応ができねえで災害活動ができるかってんだ。本部がそんなことでは困る。隊員たちの士気に関わる」

「そうだあ」という声が上がった。

「本部員どご交代させろ」「「いや、本部は一旦解散だ」

 皆勝手なことを言い出した。次第に皆の声が大きくなり、朝だというのに事務室内は盛り上がった。

「大隊長、褒賞なんかいらねっす。だがら監察も必要ねえって言ってやってくださいよ」

 これが皆の総意だった。

 もうすぐ出勤してくる署長はじめ、幹部らと相談すべく、大隊長は中隊長らと意見をまとめる準備にかかった。

 和人は「トイレです」と手刀を切りながら事務室を出た。そのまま階段を下りる。喉の奥が熱くなってきた。暫く一人になりたかった。

「おい、そんたにがっかりすんな。おめえが悪いんではねえ。それよりメシだぞ、しっかり食えよ、実習最後のメシだ」

 夏木田の声が、遥か遠くから聞こえた。


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