第10話

《消防学校実務実習生、火災現場で煙に巻かれて死亡》

 なんてな、と和人はよからぬ場面をすぐに思い浮かべてしまう。ありえない。無駄に命は使わない、無理なことはやらないぞ、と和人は改めて心に誓う。


 道路に面した一棟。二階建て住宅は、消防隊を嘲笑うかのように炎と煙を吹き上げている。

 が、和人は、初めこそ萎縮していたものの、燃え盛るオレンジ色の炎を間近に見るにつれ徐々に闘志がわいてくる。

(俺はやっぱりこれがしたいのだ、火を消したいのだ、さっきは何ビビったったんだ)

 数分前とは雲泥の差であった。

「足元に注意しろよっ」

「はいっ」

 白島に言われなくともそれは重々承知している。栗沢の二の舞にはなりたくない。まして自分は実習生。お客さんの身だ。怪我したら皆に迷惑がかかる。慎重に行動しなくてならないのだ。

 ホースを支えにしながら、和人はすり足で進んだ。多少速度は遅くなるが、このほうが滑る確率はぐっと減る。

「よし、この位置」

 白島の指示で、放水位置が示される。建物と建物との間だ。

 夏木田は腰を下ろし、筒先を構える。和人はその後方約二メートルの位置でホースを支え、抑える。火点建物からの炎の触手が、時折べろりと伸び、隣接する建物の屋根へちょっかいをかけている。

 夏木田が筒先を構えた時だった。鈍い音がした。皆一斉に音のした方角を向く。

 黒煙と共に、大きな炎が上がっていた。

「焦るなよ、慌てるなよ、相手がどんな奴(炎)なのか、よっく見ろよ」

 白島が警戒心を露わにした。

 夏木田は立ち上がった。「筒先を構えてからあたふたするよりも今やった方がいいに決まっている、さっさとやっちまいましょう」と叫んだ。

 白島は「ああ、そうしてくれ」と頷く。

「よしっ、和人、いくぞ」

 今中隊長が慎重にって言ったばかりなのに、と和人は考えたのだが、行くと言われれば行かざるを得ない。言い争っている時間はない。何か理由があるのだなと自分を納得させた。

 筒先を持った夏木田に引っぱられるように移動し、やや隣棟に近い側に部署した。

「準備ぃ、よしっ」夏木田が叫ぶ。

「放水い、はじめっ」

 白島が小首を傾げ、無線機で機関に連絡する。

 栗沢が受傷する以前から、水はあらかじめ送り込まれていたので、ノズルを操作するとすぐに勢いよく水が放出された。水勢は、一気に二階まで到達する。

「建物と建物の間を狙え。隣棟にひととおり水をかけたら筒先の向きを変え火点建物へ注水だ」

「了解っ」

 延焼を防止するため、隣接建物への予備注水を行う。しかしやみくもに建物を水浸しにするわけにはいかない。最小の労力で最大の効果を上げることが目標だ。

 夏木田が筒先を担当、和人はその後方でホースを支え補助。楢岡は放水箇所を指定する役を担った。白島は状況把握をするために指揮本部へ向かった。


「和人、筒先交代してみるか」

 白島に言われ、和人は「え」と顔を上げた。必死になってホースを抑えるあまり、地面とにらめっこするような姿勢になっていたのだ。

「いいんすか」

 いいすよ、とふざけた夏木田は、筒先を持ったまま体勢を変える準備を始めた。

 和人もホースを抱えたまま、じりじりと前に出てゆく。

(やった、筒先どご持てる)

 筒先を持てるという興奮で、一瞬周りが見えなくなった。足下が浮ついていることにようやく気づき、いかんいかんとあらためて両足を踏みしめる。

「はい、お願いします、しっかりな」和人の手が筒先を確保してから、夏木田が体を入れ替えた。ホースを捕まえながらじりじりと後退してゆく。

 自分はこれがしたくてこの世界に入ったのだ。やらずに死ねるか。やらないうちは死ぬに死ねない。

「指咥えて見られちゃあな」夏木田がぼそりと言った。

「え、そうでしたか」と応えると、ああと苦笑された。

 放水しながら和人は、そうだったかもしれない、物欲しそうな顔をしていたかもしれないと思い至り、小さく舌を出した。

 うっかりするとバランスを崩してしまうほどの強い力が、ホースから出ていた。放水の際に生まれる反動力である。和人は身体が持って行かれそうになるのを堪えた。

「負けるなよ」夏木田が励ましてくれた。

 呼吸が荒くなる。ストーブにかけられたヤカンが湯気を吐き出しているようだ。

「すげえ」筒先を保持することは辛いが、爽快感が和人の身体を突き抜けた。

「訓練とはまた違うだろ」

 はいい、と和人は頷く。「ぜんっぜん違うっす」

 和人は、身体が濡れるのも気にせず、筒先操作に没頭した。

「遊ぶなよ、玩具じゃねえからな」

「はいっ」

 夏木田のひと言は、浮つきかけていた和人の心を戒めるに十分だった。

(無理しない無理しない)

 放水された水が道に流れ出し、あちこちで鈍い光を放っている。いずれ凍るのだな、移動する際には、滑ることを前提にして足を踏み出さなくてはならないのだな、と考えた。

 放水していたのは数分間。それだけで腕が思うように動かなくなってしまった。

「よし、もういいだろう」夏木田が気づいたらしく、交代してくれた。

 それからしばらくして、ようやく延焼防止報が入った。

「延焼防止の次はなんだ」

 夏木田に問われ、和人は慌てた。こんな時でも質問されるとは思っていなかった。

「え、えっと、延焼、じゃなくて、鎮圧、です」

「そうだ、どういう状況を言うんだ?」

「延焼防止は、延焼拡大の危険がなくなったことをいいます。鎮火は、有炎現象が治まったことです」

 お、知ってるじゃねえかと夏木田が褒めてくれた。

 これだけは覚えたのだ。「鎮圧」の次は「鎮火」だ。消防活動の必要がなくなったことをいう。

「そこまで言えるんじゃあ、鎮火は訊かねえぞ」夏木田は残念でしたとでも言いたげに微笑んだ。

 脇にいる白島は、小首を傾げ、無線機に耳を集中させていた。

「よし、現場引揚。撤収っ。足元に注意しろっ」

 白島のひと言で、和人らは「おおしっ」と一斉に立ち上がった。

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