第8話

 降りしきる雪に混じり、きな臭い空気が流れてきて鼻を刺激した。和人は思わず身震いした。

 煙内訓練の記憶が蘇る。

 消防学校の訓練施設。煙の充満している、窓のない、二メートル四方の曲がりくねった通路で人命検索救助を実施するのである。空気呼吸器を着装してはいるが、防煙マスクは目隠しの状態。手探りで進み、要救助者に見立てたダミーを連れ出すのだ。ダミーは中身が砂で、重量は四十キログラム。いかに冷静さを失わず活動できるかがカギだ。もちろんダミーだからといってぞんざいな扱いはできない。

(あんたごど、やっぱり実際にあるんだべな、やるんだべな)

 できれば遠慮したいと願いつつ、和人は夏木田の後に続く。

「おお、いたいた。見えるべ」

 前方約二十メートルの住宅付近を夏木田が指差した。吐息が白い。

 きな臭さは次第に強まり、黒煙が辺りに漂い始めた。

 白島と楢岡だった。二人の向こうにある住宅からは、時折オレンジ色の炎が、ちろちろと顔を覗かせている。

 夏木田が右手を上げ、二人に向かって駆けだした。和人も続く。

「中隊長ぉ、見つけましたあ」

 夏木田が、白い吐息を間断なく放出しながら白島に接近する。和人も続く。

 雪は小降りになった。

「おう、やっと来たが」白島は、頬を緩ませ和人を見た。

「見ればわがるども延焼中だ。しかも隣接建物に延焼危険がある」

 ひょっとして、この状況を楽しんでいるのではないのかとさえ思えるような、白島の弾んだ声だった。

「ってことは」

 これもまた楽しそうな表情で問う夏木田に、白島は頷いた。

「ホースはもう延びでる。楢岡と栗沢が筒先を持ってる。我々の役目は、隣棟への延焼阻止だ」


 火災出動の場合、ポンプ隊は基本的に一小隊と二小隊がペアで活動する。

 二小隊が先行して現場直近に部署し、筒先の延長や人命検索活動の準備をする。

 一小隊は送水隊として水利部署し、二小隊へ送水線(ホース)を延ばす。

 二小隊は、車載の水を活用し、準備ができ次第進入する。タンクには一トン近い水が積まれているが、本格的に放水しだしたら五分がせいぜいだ。だから水を送ってもらわなくてはならないのだ。

 今回は最先着の坂町出張所が人命検索救助を行っているので、桜台中隊の活動主眼は、消火活動ということになる。送水態勢が整えば、隊員に余裕が生まれるということだ。だから夏木田が和人を探しに出て行けたということだった。

 栗沢守は一小隊員一番員。送水担当である。階級は消防副士長。年齢は三十二、三だったと和人は記憶している。寡黙な人で、和人は話しかけられたことがない。

「いやいや、ベテランの二人だすねが」夏木田がニヤニヤしながら言う。

「栗沢はおめえの先輩だがらな。冷やかすもんでねえど」

「そんたつもりはねっす」

 たしなめる白島に、夏木田は速攻で否定した。

「よし、まず夏木田は楢岡たちの応援だ。今さらだども、ホースどご辿っていけば場所はわかるべ。和人、おめは俺ど一緒に行ぐべ。もう一回、現場の状況どご確認するど」

「は、はい」

 話の矛先が急に自分に向けられ、和人はどきりとした。

「ま、今のところ逃げ遅れはいねがったらしいがな。状況どご確認したら、楢岡たちに合流だ。いいが」

 白島が無線機をいじりながら、ぎろりと和人を睨んだ。これまでの柔和は表情とは打って変わった厳しい目だった。ここは災害現場なのだとあらためて自覚する。

「はい」

 和人は「はい」しか言えない自分が情けなかった。経験を積まねばならないと痛感した。同時に和人は、今日何度目かの、動悸にも似た胸の高鳴りを覚えた。身体はかっかと熱くなり、目が冴えて来た。もはや冷気さえも感じない。これまでの自分とは違う自分が目覚めようとしているかのようだった。


 一歩一歩進むごとに、凍てついていた空気がほんのりと緩む。暖かささえ感じる。火災現場に近づいているのだとわかる。

 夏木田の姿は、既に和人の視界から消えていた。

 和人は目を細め、白島の背中を捉える。鼓動が高鳴る。歩くテンポは小走りに近い。だんだんと消防隊員の姿が目に付くようになってきた。当然のことだが、のんびりと歩いている者はいない。周囲はオレンジ色の光が濃くなり、ぱちぱちと木材の燃える音が聞こえる。黒煙がうっすら身体にまとわりついてきた。

「火点建物はどうなってんだ」

 火点方向からやって来た隊員に、白島が訊ねた。防火ヘルメットには〈熊川〉と表示されている。ヘルメットの線を見れば階級もわかる。消防士長だった。

「逃げ遅れはないみたいだすな。一家三人、避難確認済みです。いちおう筒先配備も完了したみたいです。ただ」

「ただ?」

 汗なのか雪なのかはわからないが、濡れた顔がぬらぬらと炎を反射していた。

「ただ、住宅密集地なので、ヤバいかもです」

 白島は「わかった、ありがと」と敬礼した。

「訊いたか」

「はい」今さっきまで和人が抱えていた不安や焦りは、高揚感で上書きされた。

「現場活動隊の邪魔をしねえように近づくからな」

「はい」

 和人の胸はさらに高鳴った。(筒先配備、イコール包囲隊形。火点建物を取り囲み、一挙鎮滅を狙う。うう、ぞくぞくしてきた。見てえ、でも見れねえ、残念だあ)

 歩を進めるごとに、目の前が明るくなる。ホースが二本延びている。がちゃがちゃと資器材を扱う音がだんだん大きくなり、入り乱れる。「そっちだ」「いや、こっちだ」「そうでねえべせ」「ここだここ、早ぐせえよ」「放水始めえっ」「おうっ」と怒号にも似た声が飛び交う。

 ひとつ間違えば命に係わる現場の迫力に和人は圧倒されてしまい、言葉が出てこなかった。

「ぼげっと突っ立てるなよ、ブッ飛ばされっど」

「はいっ」

 火点建物は、防火造二階建ての専用住宅。一階から出火したようだが、炎の勢いは二階へと移っていた。消防隊は三連はしごで二階へ架梯しているものの、梯上放水が精一杯で、進入する段階までには至っていなかった。

 一本のホースは玄関から進入している。中では、いったい何人が活動しているのだろうか。

 早くも和人の足元は、びじゃびじゃと音を立てはじめた。放水された水が溜まっているのだった。

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