第6話
サイレン音とともに次々と車庫から出て行く赤い光たちを、和人はただ見送るしかなかった。
出動する準備は出来たのに、現場まで乗っていく車がない。おいて行かれた。
(はあ、なんとしたらいいんだ、茫然自失とはこのことだな)
がっくりと項垂れていたその時、後ろから声が聞こえた。
「おい、若えの、こっち来い、乗れっ」
え、と顔を上げ振り返る。まだ待機している車があった。白い車。救急隊である。
車体横のスライドドアを開けた救急隊員が手招きをしていた。
早く来い、こっちだとでもいうように、赤色灯が回り始めた。
地獄に仏とはこのことか。和人は安堵の溜息をついた。同時に目頭と喉が熱くなった。
和人は駆けた。「すいません、連れってってください、お願いします」と乗り込む。
助手席の救急隊長が振り向いた。この三当務、救急隊はいつも出動しているので、三人の顔はおろか、名前もろくに覚えていない。
「なんだ、おめ、置いてかれたのかよ」隊長は、頬を緩ませながら和人の顔を見た。
和人はバツが悪く「はあ」とだけ答えた。
横にいる救急隊員も苦笑している。
「こんたごどもあるなやな。多少は遅れるどもよ、ま、いいべ。いい思い出になる」
なぜ置いていかれたのかと理由を尋ねるわけでもなく、遅れたことを責めるでもない。和人は、自分を拾ってくれた救急隊長に感謝した。
「救急隊はな、出火出動の時は一番最後に出るんだ」
そういえば、そんなことも教わったような気がした。消火活動の妨げにならないように、先にポンプ車を部署させるためだったような気がする。
名札をさっと確認する。隊長は「井上」、隊員は「堀井」だった。
「到着したらよ、真っ先に中隊長のどごさ行ぐんだや。何やったらいいが、よぐ聞かねばなんねで」
「はい」
和人は瞠目した。まるで、井上に自分の心を読まれているのかと思った。現場に到着したらどうしようか、何をしたらよいのだろうかと考えていたのだ。
でも、現場に行ったとて、そもそも皆はどこにいるのかわかるのだろうか。不安の種は尽きない。
「よし、みんな行ったな、んだば行ぐが」
和人は「お願いします」と頭を下げた。
「わかっていると思うが、おめえは今、お客さんの身分なんだがらな。無理されて怪我でもしてみれ、こっちも困るし、学校も困る。担当教官も困るし、何よりもおめが一番困るんだがらな。気をつけれよ」
「はい」
「じゃあ、行ぐべ」
救急隊が車庫を出る。フロントガラスには、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、雪が張り付く。それをワイパーが寄せる。寄せられた雪は、徐々にフロントガラス横に溜ってゆく。
「また降ってきた」堀井が窓から外をのぞいて言った。
「セキさん、気ぃつけてな」井上が機関員に言う。
「おう」セキと呼ばれた機関員は、そろりと救急車を動かした。
車庫を出ると同時にサイレンが響いた。よく聞く救急車特有の音だ。
ポンプ隊とは勝手が違うが、和人の胸は高鳴った。それは、傍観者の立場ではなく、直接現場に関わる者という実感があるからだ。
置いていかれたときの焦りなど、もうどこかへ捨て去っていた。火災現場へ行くのだという高揚感のみが和人の身体を満たしていた。
着いたぞ、と言われ、ドアを開けると、うっすらと白煙が漂っていた。きな臭い空気が鼻をつく。いよいよ現場に来たのだ、と和人は興奮した。
「俺たちはここで様子を見る。現場はもうちょっと先だ、探しながら行けばいい」
ありがとうございましたと救急隊に礼を言い、車から降りる。
眼前では、雪がちらつく中、いくつもの赤い光が点滅していた。
「さっびぃ」
防火衣で身体は覆われているものの、身体は濡れたシャツに包まれている。凍りつくような風が顔に当たり、首筋を撫で、防火衣の隙間から入り込む。全身に力を入れたまま動かねばならなかった。
(皆はどごさいるんだべ、どっちさ行ったらいいんだ)
立ち尽くしたままきょろきょろしていると、井上が「あっちさ行ってみれ。たぶんあのあたりだ」と、二十メートル程先にある赤い光を指差した。
「はい」
和人は井上に向かって再び頭を下げたあと、身体を反転させ足を踏み出した。数歩歩いたところで振り返ると、井上はまだこちらを見ており、手を挙げ合図してくれた。頑張れよと励まされているようだった。和人は、もう一度深々と頭を下げた。
雪が、忍び寄るように降ってきた。
足下を気にしながら徐々にスピードを上げる。風に煽られ寒いし冷たいが、そんなことを言ってはいられない。思うように進めなくても踏ん張った。
(あ、あれだが)
降りしきる雪の中、赤い光に照らされながら動いている人影を確認した。なんとなく記憶にある後ろ姿だった。
和人は急いだ。遅れたことをまず詫びなくてはならない。そう思ったのだ。
「す、すいません、お、遅くなりました」
車の傍らにいた隊員は、白い息を吐きながら荒い呼吸をしている和人を一瞥したが、これといった反応をしなかった。
(遅えヤツは現場では相手にされねえのが。聞(き)けね(こえない)ふりがよ。まいったな。なんとすべ)
和人は取り付く島もなく、天を仰いだ。白いものが止めどなく顔に落ちてくる。喉の奥が熱くなってきた。
「あ、あの、遅れて、す、すいませんでしたあ」
気を取り直し、もう一度声をかけた。隊員は、ようやく顔を動かし、和人を見た。
「あ」
「おめ、飯島、か」
和人が謝っていたのは、消防学校での同期生であった。しかも、同じ寮室に暮らす仲間である。
実習に出ている消防学生は、和人だけではない。米代市消防本部内の各消防署に振り分けられている。したがって災害現場で仲間に出くわすことも当然ありうることだった。
飯島は、和人の配置された桜台消防署と管轄が隣接している熊川消防署へ配置されていた。今回の現場は、熊川消防署も出動する区域だったということだ。
飯島の顔を見たとたんに、和人は我に返った。張り詰めていた緊張の糸が緩んだ。
「なんだ、飯島、おめ、ここで何してんだ。留守番かよ」
和人を見た飯島はさっと目を逸らした。「いや」と口ごもり、一瞬ではあるが、バツの悪そうな表情を見せた。しかしすぐに「ああ、待機中だ。何か資器材どご持って来いって言われるかもしれねえからな。見習いの身分だもの。そのくれえしか仕事はねえべ」と今にも胸を張りそうな勢いで顔を上げた。
もっともだと思った。せっかくうまく機能している仕組みに、異物を絡ませたらどうなるか。大概は故障する。機能しなくなる。
それにしても、実習一日目の非番、寮で実習のことを二人で離したとき飯島は「俺は署の皆から、お前はできるヤツだ、卒業したら是非ここに来てくれって言われたよ」と自慢していたのだが、どうやら違うようだな、いつものビッグマウスだったのだなと和人は理解した。
飯島は、自己中心的で自分が一番という人間だ。独善的で傲慢な高慢ちきである。これまでどれだけヤツの自慢話、屁理屈を聞かされたことか。同じ寮室に配置した教官をはじめは恨んだ。しかし、お互い言いたいことばかり言っていたのではケンカになる。らちがあかない。
今となってはそのおかげで、自分は耐えることを覚えた。人間的に一皮むけたと和人は自負している。
あらためて飯島の顔を見つめる。飯島はにこりともしない。
「ところで笹渕よ、おめこそ、ここで何してるんだ。さっき、なんだが一生懸命に謝ったったよな」
飯島の質問に、今度は和人が言葉を濁した。
「あ、ああ。お、俺、俺も周囲の状況確認。ちょっと見て来いって言われたのよ。んだけど、遅くなっちまってな」
飯島は、お前もそうかという表情をした。
「ま、がんばろうぜ、明日また話すべ」
いつになく控えめな態度と言葉遣いだった。
「じゃあな」
和人と飯島は、互いに手を上げ、別れた。
(まいった、ちゃんと隊名表示灯どご確認せばいがった。時間食ってしまったなや)
ポンプ車には、隊名を表示したランプが取り付けられていることをすっかり失念していたのだ。
嘆息し、顔を上げ、和人は歩み始めた。
「飯島あっ、おめえ、何ぼげっと突っ立てんだあっ、早ぐ来いっ」
和人はその声を背中で聞き、はっと立ち止まったが、あえて振り向かなかった。徐々に歩を早めた。
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