第5話
「早ぐせってば、置いていくぞ」
六文字は踵を返し、あっという間に出て行った。
和人は動揺が収まらず、不安なまま夏木田の顔を見る。「なしてですか」
「なしてって言われてもよ、しかたねえべ、こういうこともあるってことよ」
夏木田は和人のことなど構わずに、シャワーの勢いを強くし、手早く身体を洗い流すと、浴室から飛び出した。
和人は、ただ呆然と夏木田の背中を見つめていた。
「おい、俺はお前を待たずに行くからな」夏木田は手を休めず和人に言う。
「あ、ああ」
和人はというと、気ばかり焦ってしまい、手についた石けんの泡を洗い流し、ようやく身体を拭おうというところだった。
和人が脱衣所へ出た時、夏木田は既にズボンを履いていた。
(早ええ)
「早ぐせえ、急げ」
「は、はい」
急かされた和人は、身体もろくに拭わないまま、シャツを着ようとした。身体に張り付いて思うように着ることができない。
「身体ぐれえ、拭けよっ、シャツがひっつぐべよ」
「あ、はい」早く言ってくれと思うが、後の祭りだった。
夏木田も、動く度に水滴をあたりに撒き散らしている。
一度シャツを脱ぎ、申し訳程度に身体を拭い、和人は再びシャツを着た。
「ぐずぐずしてれば置いていかれるで、俺は行くからな」
夏木田はあっという間に身支度を整え、上着を抱えた。
「は、はい」和人はシャツの裾を引きながら返事をする。
和人は返事をするのが精一杯で、夏木田へ顔を向ける余裕などない。
「おそがったら、待ってねえど。置いで行ぐど」
「は、はい」
ようやく和人がズボンを手に取った時、夏木田は浴室から消えていた。
(嫌な予感はしたんだよ。見習いどごシャワーさ誘うなんて、先輩のするごどでねえよ。罰が当たったんだべ)
和人の思考は、誘いに乗ってしまった自分を反省しようというところまでは到達してなかった。
(あれっ)
脱衣籠の中にトランクスを一枚発見した。
自分ではない。ということは、夏木田のものだった。
(そうか、あの人は行動をひとつ省略したがら早ぐ出で行げだんだ、うん)
夏木田の慌てる様を想像しようとしたが、止めた。今はあれこれ考えている余裕はない。とにかく車庫へ向かわなくてはならないのだ。
和人は上着を羽織りながら、靴下はポケットに突っ込んで、浴室を飛び出した。可能な限りスピードを上げた。身体に張り付くシャツに違和感を感じながら、和人は走った。
「すいませんっ、遅くなりましたっ」
車庫に入るなり、声を張り上げた。和人は、忘れ去られたかのようにぽつんと壁にかかっている、ひと組の防火衣を見た。自分のものだ。排気ガスの臭いが鼻を突く。
クラクションの音が聞こえた。
(え、まさが)
そんなことはないと思いながら、和人は長靴をはこうとしていた手を止め、首を回し、ポンプ車へ顔を向けた。
夏木田が窓から顔を出してこちらを見ている。
和人を確認すると「おい、おめえは後から来い、先に行ってるから」と叫んだ。
(お、俺、おいていかれた)
胸に風穴が空いた。ずどんと撃ち抜かれてしまった。その穴を冷たい風が吹き抜けた。顔には追い討ちをかけるように雪が吹きつける。
(なして)
顔から血の気がすうっと引いていくのが分かった。
防火衣のベルトにかけた手が、急にのろのろとした動きになる。
(こ、こんたごどって、あるんだが、信じらいね)
和人は、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。視界から消えようとしている桜台二小隊を見送るしかなかった。
喉の奥が熱くなった。
(あとからってったって、な、なんとすんだよ)
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