第4話

「記念すべき初出動はどうだったかしら?」


 帰署すると、水森が小さな拍手で迎えてくれた。美人というか色気があるというか、何度見ても、そのたびに視線は釘付けになる。

 彼女も同じ当務班員で、任務は、指揮隊員としての広報担当。車載の拡声器で、災害現場の状況や、消防隊の活動状況を広報したり、現場の状況を撮影したりするのだ。高校時代は放送部だったというから、変なイントネーションで話したり、訛ることもないらしい。


「疲れました」和人は素直に本音を言った。

「そうよねえ、何でも初めては大変なのよね。でも、そうやってひとつひとつ経験してステップアップしていくのよ。また次も頑張らなくちゃね。そしてブッチー、最後においしいお酒を飲みましょうね」

 水森は右手を上げ、うふふと頬を緩ませ、意味ありげに和人を見つめた。男を誘い込むような顔つき、しぐさ、化粧。飲み屋のホステスにしか見えない。

 実は最近、離婚したのだと夏木だから聞いた。原因は、夫が嫉妬深くて、妄想のしすぎということらしい。わかる気がする。


「おミズよ、おめえ、自分のことは棚に上げてねえかよ」

 機関員の六文字が、片眉を吊り上げながら寄って来た。

 水森は笑顔から一転、険しい表情になった。頬を膨らませる。切れ長の目も逆三日月形になった。

「生臭坊主はあっちに行って」

 しっしっと犬や猫を追い払うようなしぐさをする。年上に向かっての言葉とも思えなかったが、何故か嫌味を感じさせない響きだった。


 六文字は、実家が寺で、消防職員だけでなく住職も務めている。一人娘は高校二年生。夏木田情報では、家に生活費はわずかな額しか入れていないらしい。坊主だから生活にゆとりがあるのか。

 水森の挑戦的な発言にも、六文字は動じなかった。あまりにさらりと言われたからか、それとも言われ慣れているのだろうか。


「本当のこと言っただけだべ。まさかおめえ、この世間知らずの若い男をどうにかしようなんてたくらんでねえだろうな」

 水森は「さあ」と含み笑いをした。

「あ、まさが、おめえ、こいつの後ろにいる教官どご狙ってるんでねえべな。駄目だ駄目だ。止めでおげよ」六文字は真顔だった。

 水森は訝しむ。「なんでそんな考えに飛躍するのよ、馬鹿みたい」ふん、と顔を横に向けた。

「お前のためを思ってだ」

 六文字の言葉には耳を貸さず、水森は「食堂でお茶でも飲んでくるわ」と踵を返した。

 歩きながら、ばっかみたいと呟き「生臭坊主め、勝手に妄想してればいいんだわ、またね、ブッチー」と和人に手を振り、事務室を出ていった。


 結局桜台二小隊は、その後三回出動した。全て火災報知器の誤発報だった。原因は、強風により滅多に吹き込まない箇所から雪が入り込み、溜り、溶け、老朽化した火災報知器の配線を短絡させたというものだった。

 おかげで、三回目ともなれば手が震えることはなかったし、夏木とほぼ同時に防火衣を着装し終えるほどだった。防火ヘルメットは、あらかじめ車に置いておき、乗り込んでからかぶればいいと気づいたこともある。

 夏木田は、雪や雨が強風と合わさると、どこかで必ずといっていいくらい自火報の誤発報がある、一回では収まらないことが多いのだと言った。

 計四回目の出動から帰った時、署内事務室の壁にかかっている時計は、二十二時を過ぎていた。


「はあ、さすがに、もうたくさんだな」

 さすがに夏木田も辟易しているらしかった。時計を見上げた顔に疲労の色が伺える。

 災害出動をした後は、事務処理が待っている。出動人員、出動経路、時間経過、活動内容、その他現場の図面作成等々活動報告書を書かねばならないのだ。現場で活動しっぱなし、行きっぱなしというわけではない。処理する件数が多くて手が足りないから手伝ってくれと夏木田から頼まれたが、所詮申し訳程度の手伝いである。見よう見まねで図面を書くのが精一杯だった。

「もうたくさんだな、これで終わりにしてもらいてえもんだな」

 夏木田は誰にともなく呟いた。

「そうしてもらいてえっす」

 和人も頷いた。目から力が抜けてゆくような感覚があった。


「お、そうだ、おい、シャワー、行くか、気分転換だ」

「え」

 唐突な誘いに和人は戸惑った。当務中にシャワーなど浴びて、万が一、出動指令がかかったらどうするのだ。

「大丈夫だ、あどは多分、ねえべ。さっぱりしてから横になったほうがいい」

「いや、でも」どこさそんた根拠があるなだすかと喉元まで出かかった。

「俺も一緒に行くがらよ。行くべ、な。報告書もあと一枚だべ」

「はあ」


 和人は見習実習生という立場である。先輩からの誘いを無下には断れない。しかし、もし出動指令が流れたら、そう、万が一流れたらと思うと、素直に顎を引けなかった。

「大丈夫だ。出動がかかったら、その時はその時。男は度胸だ」

 なんという楽観主義なのだと和人は呆れた。でもまあ先輩が一緒なのだ。もし何かあって、自分が追及されたら、先輩に誘われましたと言い訳できるなと和人は考え始めた。

 早ぐしろと急かす夏木田に引っ張られるようにして、和人は浴室に入った。脱衣所は六畳間ぐらいの広さだ。傍らには洗濯機が二台置かれている。一台は稼働中だった。

「これまでは何にもなかったから機会がなかったけどよ、洗濯機、おめえも使っていいんだからな」

「はい、あざっす」

 消防学校では洗濯機の取り合いなのだ。学生の数に対して洗濯機の数は圧倒的に少なく、使用できる時間帯も限られているのだ。


「わかっているとは思うが、ゆっくりのんびりはダメだからな」

「はいっ」

 夏木田は服を脱ぎ始めた。和人も続く。

「お、なんだ。風呂かよ。いい度胸だな、お前ら」

 六文字だった。和人を見つけ、驚いたような顔をした。手には整備用のツナギとタオルを抱えている。洗濯に来たらしかった。

「夏木田に誘われたな。悪い先輩だ。後で泣くなよ」

 夏木田はベーと舌を出した。

「六文字さんは入らねんですか」和人は思い切って誘ってみた。

「俺は機関員だもの。そんたごどできるわけねえべよ」顔は笑っているが、目は笑っていない。

(それが普通だよな、俺も入らねほうがいがったんだべが)

 六文字は、思案する和人には目もくれず、洗濯ものを放り込み、洗剤を投入し、スイッチを入れた。動き始めた洗濯機に目をやり「うん、よし」と頷くと、「んじゃ、失礼」と足早にその場を去った。

 夏木田はさっさと浴室の中へ入って行った。和人は今さら心変わりしたとも言えず、慌てて服を脱ぎ、夏木田の後を追った。

「ひゃあ気持ちいいなあ」

 熱いシャワーは、冷えた身体に心地よかった。〈生き返る〉という言葉がぴったりだ。

「さっぱりするべ」

「はい」

 首筋に当たるお湯が、出動の疲れを流してくれるようだった。


 石鹸で身体を洗っていると、突然、浴室のドアが、勢いよくがらりと開けられた。

「おい、出番だ、早ぐせ、出動だどっ」

 六文字の声が耳にわあんと響いた。


 和人の頭の中は一瞬にして短絡した。

「な、なして」

 反射的に出た言葉がこれだった。


(な、なんとせばいいんだ)

 和人の頭の中は、なしてだ、なんとせばいいのだ、え、え、と動揺ばかりが駆け巡り、次の行動を見いだす余裕を失ってしまった。

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