第3話
ダイカンビルは耐火造七階建の雑居ビル。地階はない。
警報のベルが鳴っているのは四階だった。
金魚の糞のように、和人は夏木田の後に続いた。四階へと階段を上る。車から降りた時は、自分の足でないような、ふわふわした感覚だったのだが、ようやく気持ちが落ち着いたのか、階段を踏みしめている感覚があった。
四階フロアに着くと、ベルの音が一層やかましく耳に響いた。フロアにドアは四つあり、みな施錠されていた。
通路奥には机、椅子、看板などが乱雑に放置されている。
「火の気はねえし、臭いもねえ、中隊長が今、防災監視盤どご確認してる。防災監視盤を見れば、どこの火災報知器が発報しているのかがわかる。それまで待機」楢岡が呟くように言う。
「和人、待機だ、わがったが」
「あ、はい」夏木田に念を押された和人は、とりあえず返事をした。
「おめえはよぉ、いつもはいはいって返事をするけどよ、調子がいいだけでねえのか、あ?」
「ち、違いますよ。ちゃんと考えてます」
「ったく、どごまでわがってるんだがわがんねえな」夏木田は半ばあきれた様子だ。
んなこと言われたって、こっちは何もかも初めでなんだもの。はいって返事するしかねえんだす。俺はなんとしたらいいんだすか、と半ばやけくそな気持ちになった。
楢岡が、襟元に取り付けてある無線の送受信機に顔を近づけていた。
「待機は待機だけど、和人よ、発報の原因、見当ついたが」夏木田が訊いてきた。
「いえ」
夏木田が眉根を寄せた。「即答するなよ。ちっと葉考えろ」
見抜かれていた。何も考えずに簡単に返事をしてしまったことに、和人はちょっと後悔した。
ベルが鳴り止んだ。
楢岡の無線機から声が聞こえた。白島からの呼出と思われた。
「お、中隊長、場所がわかったみたいだな」夏木田が誰にともなく呟いた。
「四階のぉ、一番窓側、外に近い感知器。それどご見でみれってよ」無線交信を終えた楢岡が、和人と夏木田に叫んだ。
「了解」と夏木田が手を挙げ応える。
「おし、和人、脚立、探すぞ」
夏木田と和人は空気呼吸器を外し、身軽になると、通路奥の部屋に再び入っていった。
片隅に置かれていた脚立を発見し、それを使って天井の進入口近く設置。夏木田が上った。夏木田は防火衣のポケットからドライバーを取り出し、器用に天井進入口を止めているネジを外した。この人はいつもドライバーを携帯しているのかと和人は驚いた。
「ライトっ」
和人は防火衣のポケットから懐中電灯を取り出し、夏木田の手に握らせた。
両腕と頭を天井の進入口へ突っ込んだ夏木田は、「おう」とか「うわっ」とか変な声を上げた。
「なんとだ」
白島が、ビルの管理人と思しき男性と二人でやって来た。六十代後半、セーターにダウンベスト、厚手のスエットパンツ、長靴。いかにも真面目そうな、温和な表情をした老人だった。
和人は白島と夏木田とを交互に見比べた。
「確認中です」と楢岡が言い終えた時、夏木田が天井から頭を下ろした。
「こりゃあ大変だすで。中はびしょびしょだ」
「え?」
老人男性の表情が固まった。
「この吹雪で、どっかから雪が吹きこんだんでしょう。隙間があるってことだすな。吹き込んだ雪が溶けて感知器のセンサーまで流れて発報したと思われます」
白島は、夏木田の説明に頷きながら、男性に顔を向けた。
「風がつええからなあ。普段吹き込まねえところから吹き込んでしまったんでしょうな。まあ火が出たわけではねえし、とりあえずは、いがったすな」
和人は、先輩たちの言葉に、ただ頷くしかなかった。
引き揚げるとき、思い切って夏木田に、ドライバーをいつも持ち歩いているのかと訊いてみた。夏木田は「出動指令の内容で準備するのだ」と答えた。車載のものだったらしい。いつの間に、と和人は驚くしかなかった。
「はあ、疲れだ」
引き揚げ途上の車内で、和人は思わず溜息を漏らした。初出動は、水を出したわけでもホースを延ばしたわけでもないのに、精神的にも肉体的にも、大分疲れた。これが出火報だったらと考えると怖くなった。
「ばがもの。これが仕事だべ、普通のことだぞ。さっきも言ったが、今日は多分、何回かおんなじようなことがある。覚悟せえよ、実習期間、今までなあんにもねがったんだ、その分がんばらねばだど」
「え」
楢岡は助手席で前を向いたまま反応しない。白島は横でにこにこ頷いているだけだった。
和人は項垂れた。出動、なんで均等にならねえんだ。なんで偏るんだと心の中で愚痴った。
「まあいい、これくらいのことではまず死なねえからな。知ってるべ、去年、どっかの消防本部で、活動中のポンプ隊員が死んだっつう事案」
はあ、と和人は生返事をした。消防学校の実科授業では、何かと言えばこの話題になる。少々食傷ぎみだ。
「なんで死んだか、わかるか」
和人は小首を傾げて考えるふりをした。いまだに解明されていないと記憶している。だから、夏木田が何か知っているなら、聞きたいと思った。
「検索体制、知ってるよな」
はい、と答える。「二人一組です」
ん、と夏木田。「命綱は、基本的に隊長が確保する、だな」
「はい」そう、問題は命綱の確保なのだ。
「通常であれば、隊長が命綱を確保していて、万が一の場合は、確保している隊長が綱を引っ張り、無理やりにでも引き戻すことになっている」
「はい」
「それがあのときはなされていなかったらしい。何故だと思う?」
「わかりません」情報が何もないのだから何も言うことができないのだ。
即答すんなよと夏木田は苦笑した。
「救出された老人を、隊長と隊員との二人で、救護所まで搬送したんだよ」
「はい」老人は衰弱していて介助が必要だったのだろう。歩行は不可能だったかもしれない。老人と言えども大人だ。二人掛かりで救助したほうが、より安全確実な行動につながることは目に見えている。その結果として、隊員が、活動現場、建物の中にひとりで残ってしまったことになる。
「じゃあ、ここで問題だ、現場に残った隊員は何をしていたと思う? 誰が、中にいる隊員のことを把握し、管理していたと思う?」
「え」
「隊長はいねえんだ、誰が現場にいる隊員に指示を出すんだ、誰が隊員の命綱を確保するんだ、誰が隊員の安全を確保するんだ」
「で、できる人、誰も、いません」
「じゃあどうするんだ、残った隊員は、糸の切れた凧だべ」
「あ、後は、じ、自己責任、です」夏木田は口を尖らせ、うん、と小さく頷いた。
「火を消し続けるか、検索を続けるか。あとは、退却、する」
「それしかねえよな。自分の判断で動くしかねえんだ、活動を続けられればそれに越したことはない。が、危なくなったら引く、逃げる、だ。そうするしかない」
「はい」
「でも、命を落とすくらいの危険が迫っていたのに逃げなかった。なぜだ」
「わかりません」
「即答すんなって」
苦渋する和人を見て、夏木田は白い歯を見せた。
「じゃあ、それは、実習中の宿題だ」
「げ」
もう実習は今日で終わるというのに。今頃言わなくてもと和人はここの中で嘆いた。現場の隊長は、逃げ遅れの情報をどうとらえていたのか。逃げ遅れたのはひとりだけだとか情報はなかったのか。まだ逃げ遅れがいると判断したのか。いったんその場から退却し、外から放水させようとは思わなかったのか。
和人には現場の経験がないから何とも言えない。唸るしかなかった。
――明日の命を救うためにも、命の無駄使いはしてはならないぞ。
副本部長の言葉が蘇った。
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