第2話

 高校時代、部活で遅くなった帰り道、いつも街の片隅でひっそりと佇んでいた赤い電灯の建物。人の気配すら感じなかった。

  あれは消防署じゃねえのかと誰かに言われ、ああそうかと得心した。火事なんかいつもいつもあるものじゃない。何もなければ暇なのだなと考えた。

 今度は、ではいったい、何もないときは何をしているのかと前を通る度に気になったのだが、高校最後の大会を目指す練習に没頭し、そのことはいつの間にか頭の中から消えてしまっていた。


 就職を考えなくてはならなくなったとき、ふいに赤い電灯の建物を思い出した。

 消防署だ。消防士だ。火事はあるだろうが、何もないときのほうが圧倒的に多いに違いない。ということは、火災がなければ何もしなくていいのだ。暇なのだ。出動したら大変かもしれないということなどには気が回らず、火を消すのは他人のためだ、かっこいい仕事なのだ、俺、やるぜと気持ちは固まった。

 それに、身分は公務員だし、倒産することもない。体育系の部活を続けてきたし、体力のも多少は自信があることも追い風となった。

 和人は、こうと決めたら一直線の性格だ。それからは消防署に勤めることしか考えなかった。

 それなりに努力もし、めでたく試験に合格し、四月、消防学校へ入校することになった。


 消防学校とはいうが、実態は職業訓練学校である。小学校とか中学校の類いではない。

 指導するのは、教官と呼ばれる職のエキスパートだ。

 学んでいくうち、レスキュー隊員、救急隊員はもともとポンプ隊員で、それぞれの業務に特化した隊員ということがわかった。さらには予防業務というものもあり、火災予防の観点から、建物の査察を行う業務もあるということを知った。

 軽い気持ちで飛び込んだ消防の世界は奥が深かった。

 全寮制の初任教養期間は、規則でがんじがらめの生活であったが、部活の合宿の延長と思えば苦にならなかった。

 起床は六時、就寝二十二時三十分という規則正しい生活を基礎に、毎日行われる体力錬成と、山盛りの丼飯とトレーニングで、身体は確実に鍛えられた。

 そのおかげで、炎天下は五十度以上になるというアスファルトの校庭で行われる実科訓練も、倒れる者はいなかった。


 防火衣と長靴、防火ヘルメット、空気呼吸器の重装備で、はしごを担ぎ、ホースを引き、救助を行わねばならない。要求される体力は「これだけあれば」という上限がない。

 一ヶ月も経たないうちに、この先自分は大丈夫か、無事消防学校を卒業できるのかと不安になった。

 訓練する度に教官からは「お前たちは最低最悪のクラスだ」と毎日のように怒鳴られ、打ちひしがれるのだ。

 それでも辞めたいとは思わなかった。同期生は誰も辞めなかった。


 繰り返し訓練されたポンプ操法。消防活動の基本である。徹底的に鍛えられた。夢の中でも走っていた。

 放水訓練では反動力のものすごさに驚き、びびった。「死んでも筒先は離すな」と言われた理由がよくわかった。

 放水していて、途中で手を離したとする。支えを失ったホースは、まさに解き放たれた竜である。のたうち回るホースは、竜が暴れている様相なのである。

 その昔、放水ポンプのことを「竜吐水」と呼んでいた理由がこの時わかった。


 煙内訓練は、煙の中での救助活動である。

 視界ゼロ。まさに手探りで高さ一メートルの狭い空間の中を進み、要救助者に見立てた重さ四十キロのダミーを捜し当て、救助するのだ。

 視界不良の中での活動の困難さ、チームで活動する大切さ、空気の大切さ、ありがたさを思い知らされた。ここで脱出不能に陥ったら、自分は燻製になるのだなと覚悟もした。


 光陰矢のごとし。訓練と規律に縛られた日々はあっという間に過ぎていき、和人は今、ここに、最終カリキュラムの実務実習を迎えている。

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