消防学生、託される

@july31

第1話

 三月も半ばを過ぎたのに、窓の外では雪が真横に流れている。視界は、十メートルあるだろうか。日が沈む時刻が迫っているわけでもないのに、墨絵のような世界になっている。

 外に出るなど極力したくない、気が滅入りそうな天気だが、笹渕和人は二階事務室で目を輝かせていた。

 天井近くに備え付けられているスピーカーから、甲高い電子音が数回鳴り響いたのだ。出動指令の予告音である。

(やったど、ついに来た!)

 東北は日本海側にある米代市消防本部の桜台消防署で実務実習中の消防学校学生である和人は、わくわくしながら胸ポケットからボールペンを取り出し、メモを取る準備をした。実習最終日になり、ようやく出動指令がかかったのだ。出動できるという安堵と、初めての出動だという緊張、興奮とが、いっぺんに和人の身体に湧き上がる。

 外の景色とは裏腹に、身体は熱くなり、鼓動は一気に高鳴る。鳥肌が足元から湧きたち、全身がぶるっと震え、息つく間もなく一気に頭頂部へ到達し、突き抜けた。


 当務員は皆動きを止め、スピーカーに耳を傾け、全神経を集中する。

 さっきまで窓に吹き付ける雪の音がやけに大きくなり気になっていたのだが、今は何も聞こえてこない。和人の身体は、すっぽりと静寂に包まれていた。

「桜台二小隊特命出動。大川五丁目七番、ダイカンビル。ベルの鳴動。桜台二小隊特命出動。大川町五丁目七番、ダイカンビル。ベルの鳴動。終わり」

 間髪入れずにベルが一声、それ行けとばかりに響き渡った。出動の合図である。

「笹渕ぃ、いくぞっ」パンダの顔ようにスキー焼けした夏木田消防士長に肩を叩かれた。夏木田は和人の指導担当である。

「はいっ」和人は大きく頷いたあと静かに息を吐いた。

 出動指令が流れ終わるのとほぼ同時に、和人は、握り締めた左手の甲に出動先住所を書き終えている。まずは指令番地を書き留めること。それができた事による安堵の溜息だった。

 すぐに顔を上げ、出動しない毎日勤務の署員らに「行ってきますっ」と小さく手を挙げ、皆に遅れまいと階段を目指した。

 特命指令なので、一斉指令とは異なり、特命された隊だけが出動する。署の全隊が出動するのではない。今回出動するのは桜台二小隊一隊だけである。

 ポンプ一小隊、はしご隊の面々は、自分たちが該当しないと分かったとたんにメモを取るのをやめた。何事もなかったように、椅子に座り直す者もいた。

 やっときたなと夏木田が微笑む。


 実習は三当務なのだが、これまでの二当務は、出動はなく、消防署の裏庭で訓練をしただけだ。これでは消防学校の生活を消防署に移しただけじゃないかと半ばふてくされていたのだが、神様は見捨てていなかった。

「初めての出動だべ、一斉出動でわけがわからなくなるよりも特命のほうがいい。ものには順序というものがある。慣れていけばいいんだ」

 車庫へ向かう途中、夏木田が諭すような言い方をした。一斉指令ともなれば、全隊出動となる。他隊との兼ね合いに神経をすり減らし、自分を見失いかねない。だからはじめは単隊で出動したほうがよいというのだ。

 それはそうなのかもしれないが、どっちでもよかった。とにかく出動できるのだ。和人の心臓は、どくんどくんと今にも口から飛び出てきそうな勢いで動いている。一斉出動の指令だろうが単隊の出動指令だろうが、初めてであることに変わりはない。気持ちは既に舞い上がっている。


 ふいに副本部長の、ぎっと口を引き結んだ、簡単には妥協しなさそうな頑固ジジイ的な顔が浮かんだ。


 実習に先立ち、和人ら学生は消防学校で副本部長から訓示を受けたのだが、その時の言葉が蘇った。かすれた声だが、信念のこもった声に聞こえた。

「君たちは、市民から安全を託されているのだと常に自覚せねばならない。だが、無理はするな。目の前の命を救うために、自分の命を犠牲にしようとは考えるな。悲しむ人がいるのは皆同じなのだ。君たちが犠牲になったら、明日の命は誰が救うのだ。先を考えろ。命は、生きていてこそ価値がある。無駄遣いをしてはいけない」

 一年前、消火活動中の職員が命を落とすという事故が発生したことを受けて言っているのだった。延焼中の建物から老人を発見し、救出をしたのはいいが、その後引き続き建物内で消火検索活動を続けていた隊員が、帰らぬ人となったのである。

 なぜ逃げられなかったのか、その原因は調査中ということだったが、いまだにはっきりとした解明はなされていない。活動中に爆燃現象が急激に発生し、逃げる暇もなく炎に巻き込まれてしまったのではというのが大筋になっているらしい。

 現場経験のない和人には、その時はピンとこなかったのだが、今は違う。出動する立場になって、はじめて、自分の命も危険と隣り合わせになるのだ、万が一もありうるのだ、 気を付けねばならない。


「やったね、行ってらっしゃい。これで打ち上げ楽しみだね」

 女性消防官の水森消防士長の声で我に返った。笑顔で手を振ってくれている。指導担当ではないが、実習中、なにかと声をかけてくれ、面倒を見てくれるいい人だ。色白で目鼻立ちの整った綺麗な顔。ミス何とかにもなれるだろうくらいに美人だ。年齢は和人の十歳以上上らしいが。

(打ち上げどころではねえっすよ)

 彼女の笑顔に応える余裕はなかった。片頬をぎこちなく釣り上げるのが精一杯だ。


 そうこうしている間に、夏木田の背中が遠ざかった。追わねばと焦る。

 身体は動いているのだが、自分の身体の感覚がしない。足の運びが覚束なくなる。足が地についていないというのは、こんな状態を言うのかもしれない。身長百七十五センチ、体重六十八キロ、体脂肪率十二パーセントに鍛えた身体も、こうなっては形無しである。

 和人は、喉がカラカラに渇いてくるのをおぼえながら、階段を下り、車庫へ向かった。

 当たり前のことだが、乗車する前に防火衣を着装しなくてはならない。一分以内が目安だ。

「まいったなや、ひでえ雪だ。こりゃあ、この後も続くぞ。笹渕よ、覚悟したほうがいい」

 先行した夏木田は、すでに長靴を履き終えている。スキーが趣味という夏木田は、二十八歳で独身。和人にとっては部活の先輩という感覚である。

「続くって、なにがすか」

 これから長靴を履かねばならない和人には、顔を上げている余裕はない。下を向いたまま口を動かす。消防学校の訓練では、一分以内で着装が出来ていた。が、それはあくまで訓練。現実はそんな生易しいものではなかった。手が、腕が、脚が思うように動かないのだ。

「おんなじことが何回も続ぐってことだ」

 夏木田は、防火衣のベルトを締めながら言う。

 言っていることがどういう意味なのかよくわからなかった。が、とにかく今は、防火衣を着装して出動しなくてはならない。長靴は履いた、サスペンダーをかけろ、それから防火衣だ、早くしろ、先輩に負けるな、と自分に言い聞かせる。


「笹渕消防士、気合入れていけよ」

「はいっ」白島中隊長の声に、思わず顔を上げた。階級をつけて名前を呼ばれると、ピリッと身が引き締まる。

 中隊長は防火衣に袖を通している。和人と夏木田との会話を聞いていたのかどうかはわからない。

 中隊長の階級は〈消防司令補〉。階級章の星はひとつだが、消防士や消防士長のそれと比べて、金色の占める割合が増える。ちなみに署長クラスの〈消防監〉になると、階級章は全面金色の金ぴかになる。

 長靴を履き、防火ズボンを履き、防火衣に両方の腕を通し、ベルトを締めようとして焦った。手が震えている。バックルにベルトの先端が通らない。カチャカチャと音をたてるばかりだった。

 え。

 緊張しているのか、俺――。


「大丈夫か」気づいた夏木田が声をかけてくれたが、返事をする余裕などない。落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせる。夏木田は既に防火衣を着装し終え、防火ヘルメットを小脇に抱えていた。

 和人はベルトから手を離し、息を吸い、吐く。焦るな落ち着けと呟く。

 その時、車庫のシャッターが開け放たれた。吹き込む風に顔を上げる。そのとたんに雪がまともに吹き込んできた。

「ぶわっ、ひゃっけっ」

「雪はひゃっけに決まってるべ。はやぐいぐど」

 思わぬ出来事に緊張がほぐれたらしい。和人はようやくベルトを締めることができた。踵を返す。


 夏木田は車に乗らずに待っていてくれた。「早く乗れ」と促される。

「すいません」と急いでドアノブを引き、乗り込む。

「乗るときは、降りることを考えなくちゃだめだからな。向こうからは中隊長が乗ってくるから、お前は真ん中だ。教わったべ」

 中隊長は現場到着後にいの一番で状況確認に走らねばならない。一番員は小隊長とともに活動準備に取りかからねばならない。だから二番員は必然、真ん中に乗り込むことになる。


 降り続いた雪のおかげで、街は押し黙ったままだ。まだまだ春の足音は聞こえてこない。

 和人が乗車すると、すぐに白島中隊長が乗り込んできた。運転席には六文字機関員、助手席には楢岡二小隊長が乗車済みである。温厚で寡黙な楢岡は、めったなことでは表情を変えない。逆に六文字は、人懐こい表情を絶やさない。

「よしっ、オッケーだ」

 白島の、短いが気合の入った言葉で六文字は「おしっ」と応えた。

 クラクションが二度鳴り、ディーゼルエンジンの音が高鳴る。

 地の底から響くような音が、和人の身体を震わせた。再び全身を鳥肌が覆う。

(いよいよだ、出動だっ)

 心臓がドクンと高鳴った。息苦しい。

 車庫内に赤い光が点滅した。赤色回転灯のスイッチが入ったのだ。


「行ってらっしゃい」と車庫前で誘導をしていた署員が見送る。

 楢岡が窓を開け、安全確認のため、前を、後ろを覗きこむ。

 雪が吹き込んで来るが、どうでもいい。記念すべき初出動を見送られ、和人は感動を噛みしめた。

 サイレンの吹鳴。和人の全身は、何度も押し寄せてくる鳥肌の波にしびれたままだった。

 主要道路はともかく、小路には轍こそないが、まだまだ雪が残っている。桜台二小隊は、サイレンとチェーンの音を響かせながら、署を後にした。


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