僕は君を愛さない

モチノキ ナオ

第1話 ヒーローが死んだ日

「大丈夫。わかってたから」


 何度かの押し問答の後、僕が漸く捻りだした言葉を、メッセージアプリ上の彼女はそう“素っ気なく“返した。いや、実際に素気なかったわけではない。きっと本当に彼女は「わかって」いた。この意味があるのかわからない、長ったらしい文字の羅列の押し問答も、今思うときっと彼女による誘導尋問の手のひらの上だったのだ。

 話を遡ること数時間前、僕の彼女の堀塚奈々は、何日間か連絡を絶っていた僕に、唐突にこう切り出した。


「私、賢介さんにとって邪魔な存在だと思うんです」


 明るく快活で、竹を割ったような性格の奈々は、普段そんなことを言いだすような重い女ではない。その証拠に、その言葉に続いていたのはどうしてそう思ったか、という理路整然とわかりやすい“解説“のような言葉だったのだ。

 普通の恋人であれば、こんな時「急にそんなこと言いだしてどうしたの?」とか、「そんなことないよ」だとか、それらしくフォローをする言葉をかけられるし、にべもなくそんなことを思って心配し、彼女に電話をかけたり、会いに行ったりするのだろう。

 だけど、僕の頭に過ったのは冷淡にも、「いよいよ限界か」という言葉だった。


 僕と奈々は、うまくやれていたと思う。奈々は僕のことをまっすぐに想ってくれているし、こんなに尽くしてくれる女性は世界のどこを探しても彼女しかいないと思う。

 作家兼脚本家という、あまり日が当たらず外界を知らない世界にいる僕に、外の世界のことを教えてくれた。デートに行くときも、「こんなのって題材にならないかな?」と僕より熱心に考えてくれた時もある。僕が本を出せば誰よりも早く買って感想を述べてくれ、手掛けた脚本に関しても同様であった。

 奈々も副業のフリーライターとしてコラムなどの記事を手掛けているから、とても参考になる意見ばかりもらっていたように思うし、きっと気付かれないだろうという設定や伏線も、誰かが気が付くよりも先に彼女が指摘してくれていた。

 おまけに奈々は人懐っこい性格や人好きする顔立ちのおかげもあってか、本業の仕事でも頼りにされることが多く、気が付けば役職勤めになっていて、僕よりも多忙な日々を送っている。それでも時間がない、という彼女からすればただの言い訳になってしまうのが悔しいらしく、読書や映画鑑賞、楽器を弾いたり家事全般をこなすことも忘れない。

 それでも人を見下すよりも人に手を差し伸べる性格も相まって、彼女の周囲にはいつも人がいて、友人が多い。いじめられることよりも、いじめられっ子を助ける立場が多かったと奈々の幼馴染である愛美からも聞かされていた。

 それでも、自分よりも僕を最優先に考えてくれる。僕が会おうと言って断られたこともないし、僕の言葉、一挙手一投足すべてに気を配ってくれる。僕を傷つけることは決して言わないし、外出すれば僕の矜持を立てられるようにしてくれている。

 何時しか僕は、そんな彼女に、――奈々に、激しい劣等感を抱くようになっていた。

 奈々は一人で何でもできてしまう。普通の女性のように情緒不安定になるようなことも、それが原因で他人に当たり散らすことも一切しない。僕が出会った女性の中で最も優しく、感受性が豊かで、共感性が強い。自分のことを器用貧乏だと評しながらも、どの分野においても一目を置かれるほど突出していて、貧乏が何なのか、まるで知らないかのようだった。

 可愛げのない女だった。本来男に頼るべきところでも、一人でなんとかしてしまう。僕なんていなくても、生きていけると言わんばかりだった。

 そんな彼女に対して、僕は何もない。何も持っていない。平凡で、ただ自己愛ばかりが強く、器も彼女のように大きくないから、そんな彼女がそばにいることで強い劣等感すら抱いてしまう。書きたい本が売れず、書きたくもない脚本を書かされ、多くはない金で生計を立てている。年収もきっと彼女のほうが多いのだろう。

 学生時代はいじめられて過ごし、友達も少ない。文字を書くことしか能がないし、文字を書く能すらないのかもしれない。それがないとすれば、僕に残るものは何もない。

 努力を実力として積み上げられてきた彼女に対して、僕はきっと夢を見すぎて惰性に浸ってしまっているのだろう。だからこそ、奈々が今持っているものすべてが僕に足りないと突き付けられている気がして、心底腹立たしい。彼女の言葉端すべてが気に障る。そんな醜い劣等感を抱える自分を見せないようにとやってきたけれど、洞察力がよく察しのいい彼女は気が付いてしまったのだろう。

 ――そんなところも、嫌いだ。

 そして僕は別れ話を切り出し、彼女をできるだけ傷つけないよう、と思いながらも、本当はこんな劣等感を抱える自分を察せられたくなくて、それらしい理由をつけた。

 本当はそうじゃないだろう、好きじゃなくなったならそうはっきりと言えばいい、と返されたときは、どこまで読まれているのか心底彼女の洞察力が恐ろしくもなった。そんな洞察力があれば、僕もいい本が書けただろうか。


 そして、冒頭の言葉に戻る。

 わかっていたから、食い下がるつもりもない。その後に続くのは、僕にどうしても幸せになってほしい、と献身的に僕を支えてくれていた奈々らしい言葉だった。きっとそれらも彼女の本音なのだろう。こんな僕を疑うことなく想い、尽くし、愛してくれていたのだから。

 そういうところも好きになれなくて、僕はそれ以上の言葉を返せなかった。

 本当にそれが最後に交わす言葉になるとも知らずに、今までと同じようにメッセージを返すことなく彼女とのやりとりの履歴を削除した。

 僕が少しでもこんな人間ではなくなった時、奈々とまた話してみよう。“また“来る未来を、何も疑うことはなかった。




***




 がたん、という電車の揺れで、意識がゆっくりと浮上する。重い瞼を渋々持ち上げると、電車の窓から見える山脈に、茜色の夕日が差し込み始めていた。

電車内の人はまばらで、四車両しかないこの電車の利用者がいかに少ないかがうかがえた。土曜の夕方なのに、と思ってしまうのは都会暮らしが長いからだろうか。イヤホンを片方外して当たりを見渡したところで、ちょうど電車のアナウンスが次の駅名を告げていた。ちょうど、奈々の実家のある駅だ。

 このまま着かなければいいのに、と半ば願うような気持ちでため息を吐きながら電車の背もたれに身を任せた。


 数週間前に別れた奈々が亡くなった、と聞いたのはつい一週間前のことだった。

久しぶりに奈々から連絡がきたと思えば、それは奈々の声ではなく、知らない中年女性の声だった。中年女性は奈々の母親だと名乗り、奈々が交通事故で亡くなった、葬儀が三日後から執り行われるので来てほしい、とのことだった。

 別れたショックで奈々がついに狂言を言い、それに悪乗りした友人が掛けてきているのではないか、と疑った。連絡先を知る限りの彼女の知人に連絡を取ると、皆一様に気の毒そうに僕に「しっかり気をもって」といういらないアドバイスまでもらってしまったぐらいだった。彼女が本当に死んだ、と気付かされるには十分な材料だった。

 奈々と別れた後も仕事はうまくいかず、また順風満帆な生活を送る彼女を見て劣等感を覚えるのではないかと思い、まったく会う気なんてなかった。彼女が死んでいるとしても、きっと亡骸に縋る彼女の友人らを見て、自分との差を思い知ることになってしまうのだろう。

 死んでもなお、僕にはないものを持ち続ける奈々。それに、僕は既に彼女にとって他人である。年齢的にそろそろ結婚、なんて考えていたこともあったけど、それはもう過去の話。想ってくれる上に最大限のフォローすらしてくれていた彼女とうまくやれなかった時点で、僕の独り身の未来は決定づけられたようなものだ。

 自分の冷淡さにも腹が立つ。こんな時きっと奈々がそばにいたら「それでもお世話になったんでしょ?行くだけでも人としての意味はあるよ」なんて説教がましく言うのだろう。本当に、好きになれない。どうして、今でも亡霊のように僕の頭の中をついて回るんだ。いっそ僕は奈々に憤っていたのかもしれない。奈々のせいではないのに。死んだ人間にまで劣等感を覚えるなんて、僕は一体何をしたいのだろう。


 そんなことをぐるぐると考えているうちに、一週間が過ぎてしまっていた。

 奈々は、もう白い木箱に収まる姿になってしまっていた。僕の手を握って温かい、と喜ぶ小さく柔らかな手も、いつも隣にいるときは僕ばかり映していた大きく丸い目も、細く滑らかな黒い髪も。もう、どこにもなかった。それでも涙が出ないのは、きっと部屋中に咽ぶほど充満している線香の香りのせいだ。賢介さんは優しいね、と笑う彼女の声が遠く聞こえた気がする。

 手を合わせた後目を開けると、小さな遺影がこちらに笑いかけていた。少し幼く見えるのは、彼女がまだ若い時の写真だからだろうか。


「奈々、写真に写るのは嫌いだったでしょう。それぐらいしかなくてね」


 困ったように笑った彼女の母に向き直ると、何度泣き濡れたかわからないほど目は赤く、腫れていた。彼女は愛されていたのだろう。亡くなってから一週間経っても、泣きはらすほど。


「でも来てくれてよかった。奈々、本当に賢介くんのことが好きだったみたいだから」

「すいません、仕事が忙しくて……」

「いいの。きっと奈々も許したはずだから。誰よりも賢介くんのことを応援する、だからそれ以外の心配をさせないように、私が頑張るんだって……――奈々、本当に人のことばかりで。自分のことなんか全然考えない子だったから」


 だからこそ、奈々は多くの人に愛されていたのだろう。彼女の祭壇には、乗り切らないほど多くの花が飾られていた。奈々は、よく花のモチーフのピアスやアクセサリーを好んでつけていた。花が好きなところも、奈々らしいといえば奈々らしく、彼女の友人たちもきっとそれをわかって花ばかり選んで、彼女のために献花したのだろう。

 自分のことを話すのは、少し苦手なんだ。困ったように笑う奈々の顔がふっと脳裏を過る。自分がない者ほど自分のことを語りたがる、彼女はきっと多くのものを持っているのだろう、と同僚が語っていた。この花や、彼女の母が流す涙以上に、奈々は僕の知らない奈々らしさを持っていたのかもしれない。僕は、何一つ彼女のことを知らない。


「せめて、賢介くんとの結婚式での花嫁姿ぐらい、見せてくれてもよかったのにね。本当に、いつもやることなすこと急なんだもの。」

「……」


 言葉が、出ない。否定できるほど非情にもなりきれなくて、肯定してあげられるほど優しくもなれない。奈々、僕はこんなにも中途半端なんだ。どうして、そんな男を好きになんかなったんだ。


 奈々の実家を出ると、先ほどまで沈みかけていた夕日がすっかり沈んで、空も街も夜に染まっていた。ふと頭上を見上げると、都会よりも多い星が瞬いていた。柔らかで少し冷たい風が頬を撫で、木々は揺れて葉は温め合うように葉を擦り合わせる。奈々が好きだった景色。奈々が、生きていた世界。

 奈々は、ヒーロー映画に出てくるヒーローのような存在だった。自分を卑下しながらも多くのものを持っていて、それをひけらかすこともなく多くの人々に愛を振りまく。僕は、奈々のようになりたかった。


「お兄さん、お葬式帰り?」


 そう声を掛けられてはっと我に返る。我に返ってから泣きそうになっていたことに気が付いて少し息を吐いて、踵を返した。そこには長身で美しい女性がこちらに微笑みかけていた。少し掠れた低めの声に男だと思ったが、印象とはまったく違う美しい女性で驚いた。また記憶の中の奈々が「人を見かけばかりで判断していては損をしてしまいますよ」と説教をする。

 目の前の彼女も黒一色の喪服を身にまとっており、パンクだとかそういうものに傾倒していなければ考えられないような色彩の使い方だった。彼女をつま先から頭まで不審げに見て、「ええ、まあ」と曖昧に返した。


「私も。このへんに来ることはしばらくなかったんだけど、本当に何もないよね」

「は、はあ」

「良かったら飲みに行かない? この先に一軒あるの。付き合ってよ」

「あ、いや、でも」

「家にまっすぐ帰る前に一旦どこかで憑いてきたものを落した方がいいって聞いたことない?」

「そんなことがあるんですか」

「あるわよ。葬式帰りなら塩もらったでしょ? それを玄関前で掛けるのと同じなんだって」


 厳密には葬式帰りではないから、僕は塩すら持っていない。それなら彼女の言うことも一理あるのだろう。奈々は怨霊になって誰かに憑いていくような女ではないとはわかっているが、この記憶を取っ払ってしまいたいという思いはある。そんな迷信めいたもので落とせるのなら、とっくに落とせているのだろう。

 迷う僕を見かねてか、彼女は「このあたりの店、あの一軒しかないから」と無理やり手を引いた。つんのめりそうになりながら、必死で足が長く歩幅の大きな女性についていく。

 奈々なら僕の顔色を窺って「じゃあ、どっかで軽くお茶でもいかがですか?」なんて妥協案を提案してきたのだろう。本当に嫌そうにしているときは、じゃあ帰りましょうか、なんて言う。自分よりも僕を優先して。本当に、大嫌いだ。


「ヒーローみたいだった」


 隣でグラスを傾けながらそう言った彼女の一言に、僕はどきっとしながらたこわさをつまんだ。連れていかれた先の飲み屋は、カウンター八席ほどの小さな店だった。店の壁に所狭しと並ぶ日本酒や焼酎の瓶の数々に、それでも地元住民から愛されてきた店なのだろうということが窺えた。奈々はこういう店が好きだった。僕がかっこつけて少し高いレストランを予約しようとしたときも、「それなら同じだけの金額をかけて好きなだけ赤提灯を飲み歩こうよ」と提案してきたこともあった。肩肘を張らずに付き合える、という意味ではきっといい彼女だったのだろう。


「亡くなった人?」

「うん。好きな人だったんだ。ああ、まあフラれてはいるんだけど」

「そうなんだ……」


 こんなに美しい人でもフラれることがあるのだなあ、と他人事のように思いながらハイボールを飲む。ハイボールは糖質が低いからカロリーゼロですよ、と言っていた奈々のくせがうつって、それ以外はあまり飲まないようになってしまった。


「一度は付き合ったんだけど、私が甘えすぎちゃってフラれた。それでも自分を磨いて何度もアタックはしてみたんだけど、自分に向けられる好意にはド鈍い人だったから全然気が付かなくてさ。ついには別に恋人作りやがって。でもその恋人にフラれて数日後に、って感じ」

「そ、っか」

「あーあ。アタックするならあの時だったのになぁ」

「……悲しい?」


 抱える感情として、ありきたりなものを選ぶ。それなのに僕は持っていない。本当に奈々を愛せていたのだろうか。こんな時にも劣等感ばかり感じる僕は、知らず知らずのうちに奈々を傷つけてばかりだったのではないだろうか。彼女はそうね、と視線を伏せて、グラスの中の氷をからんと鳴らした。


「悲しい、どうなんだろう」

「悲しくはないの?」

「この世界を守るヒーローがいなくなった、って感じ」

「悪に滅ぼされて?」

「交通事故だから滅ぼされたわけじゃないでしょ。ただ、……最期まであいつらしかった」

「最期、話したの?」

「死ぬ前にね。まさかあの後本当に死んじゃうなんて思わなかったけど。死ぬってわかってたら必死で止めてた。……あいつが守ってたもののこと考えると、こんな私の命も惜しいって今なら思う」

「そんなに好きなら伝えればよかったじゃないか。後悔なんかする前にさ」

「物事はそんなに軽くはないのよ。もうあいつが守り続けてきたものを守れないみたいにね」


 この世からヒーローは、二人いなくなってしまったのだ。

 一人は僕の前の彼女、もう一人は彼女の想い人。きっと、そうして世界はまた悪に包まれていくのだろう。僕のように、自己愛とエゴに満ちた人間ばかりで満ちていく。そうして、人々が助けを求められる先はどこにもなくなってしまうのだ。


「あんたは悲しくないの?」

「え?」

「泣いた痕もないからさ」

「……どうなんだろう」


 きっと、打倒すべきヒーローを失った悪の組織のリーダーは、こんな気持ちなのだろう。

 ああ、なんて気分だ。




***




 気丈な振舞だった女性はその跡形もなく首まで真っ赤にして足をもたつかせ、長身で骨ばった身体を僕に預けている。まだ飲める、なんて寝言のように言っているがもう限界だというのは大して付き合いもない僕でもわかる。他人を強引に振り回して、弱いところを躊躇いもなく見せつける。それが普通の女性なのだろう。

 奈々は、本当に他人に頼りたがらなかった。お酒も僕よりも強く、「顔赤いよ。もうやめとこう」と僕が思うよりも先に水を用意してくれていたこともあった。……本当に、可愛げのない女だった。自分の情けなさを何度となく突き付けられるほど。

 隣の女性がふいに、ふんふんと鼻歌を歌い始める。のんきなものだ。


「なんの曲?」

「オアシスの曲。ノエルギャラガーが一番最初にリードボーカルとして歌った曲。知らない?」

「……知らない」


 どこかで聞いたことがあると思えば、奈々が好きだった曲だ。彼女もよくこの曲の鼻歌を歌ってた。なんの曲だと聞けば、恥ずかしそうに教えてくれた。

 彼女は、ずいぶんと気分が良さそうに言葉を続ける。


「この曲ね、あいつが好きだったんだ。あいつがギターをふいに握ったとき、いつも弾き語ってた。彼女の心は離れてく、それでも悪い思い出にしないで、そうやってあいつは――奈々は、訳してた」


 はっと息をのんで、足を止める。彼女はゆるゆると僕から離れ、少しだけ歩いて僕に向き直った。聞き間違いじゃなければ、いま彼女が口にしたのは奈々の名前じゃなかっただろうか。

 真っ黒な彼女の瞳に、瞠目したまま呆然とする僕の阿呆面が映る。そんな瞳をすっと細め、口角を上げて、彼女は笑う。いや、嗤っているのだろうか。


「……いま、奈々、って」

「そう。私――俺が昔付き合ってた、元彼女の名前」


 頭の中が混乱してうまく整理がつかなくて、次の言葉が出てこない。奈々は同性愛なんて趣味はなかったはず。確かに誰でも構わず受け入れていた。だから同性愛者の友達もいると言っていたが、自分自身はノーマルだと笑っていた。じゃあ、目の前の“彼女“は、一体誰なのだろう。

 ざあ、と乱暴な音を立てながら僕たちの横を車が通り過ぎていく。気が付けば大きな川を渡る橋の上にいたらしい。風が、強い力で体をなぎ倒そうとするかのように煽る。


「……ひとつ、昔話をしようか」


 声すら出ない。

 “彼女“はそのまま言葉を続ける。


「奈々は、男嫌いだった。もともと嫌いだったわけじゃない。あいつは、自分がひたむきに目指してた夢の中で、何度も男に叩き潰されていたんだ。奈々は愛想もいいし、かわいい。だからいじめられるようなことはなくても、消費されていったんだ。それに嫌気が差して夢を目指すこともあきらめたんだ。だから、男嫌いになったんだ。だから、元の俺じゃ好きになってもらえないと思った。幸いにも、奈々自身は同性愛者には理解があった。俺と付き合ってた時からそういうやつらから好かれてた。奈々も一人の人間として見てた。だから、奈々にもう一度好きになってもらうにはこうなるしかないと思った」

「……どうして」

「お前ならそう思うだろうな。狂ってるって、思うだろうな。だけどさ、奈々は性別だとか年齢だとか、そんな小さいことで人のこと見ちゃいないんだよ。――そんなこともわからないお前を、奈々はどうして好きになったんだろうな」


 そんなこと、僕だって知りたい。知りたかった。奈々のことを何も知らないまま、別れてしまった。もう一度話す機会も、永久に失ってしまった。


「奈々はきっとわかってたんだ。お前がそんな小さいことを考える男だって。だから俺のことも言わなかったんだろう」

「……僕は、奈々のことを何も知らない」

「そうだな」

「何も知らないから、そんなことで僕を責めるべきではないだろう」

「本当に、お前は何も知らないんだな」


 今度こそ“彼“は嗤う。


「奈々はあの日、お前に言いたいことがあることを思い出したから、これから会いにいかなければならないと言って飛び出していった。たぶん拒絶されるかもしれない、目も合わせてもらえないかもしれない。それでも、どうしても言わなきゃいけないから、と。直接別れを告げることもないような男に直接言うことが本当にあるのかって言った。それでも、だからこそ私はちゃんと伝えなきゃって。……そうして、奈々は交通事故で死んだんだ」


 心臓の拍動がやけにうるさい。手の震えが止まらない。僕が、今見て聞いているこの世界は、現実のものなのか。


「お前のせいで、奈々は死んだ」


 強く押された身体はあっという間に橋の欄干を超え、気が付いた時には世界が、ゆっくりと逆さまに落ちていった。

 奈々は、決して僕を責めなかった。僕が好きじゃなくなったと伝えたときも、「私のせいだね」「私の努力が足りなかったみたいだ」と返してきた。狭量な僕を責めることは決してなかった。そして、「大丈夫。わかってたから」と僕に言った。彼女は、奈々は本当にわかっていたのだろうか。僕を好きでいて、本当に彼女は幸せだったのだろうか。

 何も知らない。何一つ知らない。

 悪い思い出にしないで、とうたう奈々の気持ちも、彼女自身のことも。

 どぼん、と水の音が聞こえた次には、僕の見る世界は暗転していた。


「賢介さんの見る世界も、みんな好きです。だから、みんなが賢介さんの見る世界を愛してくれればいいって、そう願わずにはいられないんです。知ってますか? 賢介さんは自分で卑下ばかりするけれど、本当に素敵な人なんですよ。私の何倍も」


 こんな世界を見る僕でも、彼女は愛してくれただろうか。なんだか、とても眠たい。

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