第601話 深い河
草木の葉を穿つような大粒の雨だれで始まった雨は、絹糸のような霧雨に変わり、やがて、上がった。
微風が枝葉を揺らすたび、驟雨のなごりの雫を降らせてくるトネリコの梢の下に、アマリリスは姿を現した。
「よくここがわかったね」
「・・・ほかに、目印になるようなとこないでしょ、
俯いたまま答えるアマリリスは、
事ここに及んでもなお、直前までひどく気後れしていた。
案外、何事もなかったふりで会えば、このままのあたしたちを続けられるんじゃないかしら、と。
しかし、気力を振り絞るようにして顔を上げた時、はっきりと悟った。
そこに僅かでも、苦悩や罪の意識が読み取れたなら、アマリリスは全てを赦していたかも知れない。
一方、アマロックもある種の後悔を感じてはいた。
アマリリスの求めていることは分かる。
だが彼に、その役割を演じることはできない。
アマロックが殺して食べた幾人もの人間の脳に、その振るまいのための回路はきっと形成されていたことだろう。
しかしアマロックはそれらを、自分に不要な機能として破棄してしまっていた。
結果的に、彼には先見の明がなかった。
二人は無言で見つめめ合った。
そこにいるのは、深く暗い森に迷い込み、傷つき苦しむ人間と、
狡猾に招き入れた獲物を、辛くも取り逃がした、禍々しい獣でしかない。
視線を交わすほど、その断絶は深く感じられるばかりだった。
「不公平よ。」
アマリリスは最後に、呻くように言った。
「どうして人間にだけ、魂があるのよ。」
その問いに、答はなかった。
その夜、アマリリスはトワトワト臨海実験所の鍵を開け、仕舞われていた毛布にくるまってペチカの上に横になった。
がらんとした空気も、暖炉の石もしんと冷たい。
下腹部の痛みは次第に治まりつつあったが、胸の中に渦巻く苦しみが、消えるわけもなかった。
アマロックが裏切らなければ、こんなに苦しまずに済んだ。
アマロックを信じなければ、大切なものを2つも失う悲しみを、味わう事はなかった。
もしあの時、アマロックに出会わなければ・・・・・・・
砕けてバラバラになりそうな心を、喪われたものを悼み、
アマロックを憎悪する事で必死につなぎ止めようとした。
でも、うまくいかなかった。
そしてそんな形でしかわが子を想わない自分の心の醜さに気づき、そのことでさらに苦しんだ。
夜半過ぎ、風に乗って横笛の音色が聞こえてきた。
美しい旋律だった。
優しさ、哀しさ、愛おしさ。
聞く者の心を乗せて、広く遠い空へ消えてゆく音楽。
アマロックの奏でる音に耳を傾けながら、
母になるはずだった少女はやっと眠りに落ちた。
朝日が、かすかに波立つ入り江の海を無数の輝点に染め上げ、
長年の風雨にくすんだ窓から室内を照らす頃。
そこには、既に人の気配はなかった。
〈トワトワト編 了〉
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