第599話 急襲する闇#1

口から泡を飛ばして森を疾走するオオカミに、樹冠から黒い影が迫る。


キツネを捕らえるイヌワシのように覆い被さった黒い魔族は、その襟首を掴むや、易々と空中に掴み上げた。

アマリリスは束の間、その手を振りほどこうと足掻いた後に、変身を解き、人間の身一つで逃げ出した。


2歩と進まないうちに足を絡げられ、背中を乱暴に突き飛ばされる。

前方にほとんど一回転する勢いで転げたアマリリスは、それでも懸命に胴を庇って草木の間に倒れ込んだ。


「交渉は妥結した

なかなか、話の分かる奴じゃないか」


息も絶え絶えながら、視線の熱で相手を焼き殺そうとするかのように睨みつけてくるアマリリスの上に、

オオカミの毛皮を無造作に投げつけながら、トパット゚ミは言った。


「結論は三つだ。内容を教えてやろう

おまえにも関係のある話だからな」


鉛の両眼はてらてらと光りながら、一方で黒い穴を覗くような空虚だった。


「一つ

間もなく、狼は渡りに入る

不在の間、鴉は狼の巣で狩りをすることが認められる


二つ

イチイの実が熟したなら、鴉は速かに狼の巣を去ること

巣に戻った狼が鴉を見ることがあれば、

狼の群が鴉を追う


――この縄張りはヤツの生命線だ

わたしも、命懸けになったアマロックと戦うような沙汰は御免蒙る

ましてやオオカミも加わったら、完全に勝ち目はない


それにここは寒すぎる

イチイが熟すのなど待たずに南に帰らなければならない


三つ

もっとも重要な条件だ


狼の渡りに、雌狼は同行しない」


「ウソだ!!」


言い終わるか終わらないかのうちに、アマリリスは叫んだ。


「・・・嘘だ。」


繰り返した。

しかしその声に力はなかった。


「本人に聞いてみろ

ヤツがこの森にいるうちに、会う機会があればな」


何ら興味を動かされた様子もなく、トパット゚ミは淡々と答えた。


「アマロックが、あたしを捨てたとしても。

お前を受け入れたりはしない、絶対に。」


呻き混じりの声で必死に言った。


金属の珠が擦れ合うような、不快なきしみが聞こえた。

薄い唇の間から鋭い牙が覗き、この魔族が笑ったのだと分かった。


「実際、お前のような女は貴重なのだよ

異界で生きてゆける人間というのはな


意志は尊重しよう

しかし生憎こっちも急いでいるんでね

それにわたしは、あの女たらしと違って、自分の持ち物をつけあがらせる趣味はない」


トパット゚ミがにじり寄ってきた。


ればいいじゃん。」


獣のような素早さで跳ね起き、一歩も引かずにアマリリスは言い放った。

震えながらも、その声は死んでいない。


ところで、あたしはあんたの物になんかならない。

あたしのお腹には、アマロックの子供がいるんだから。


あんたも残念だったね。

おいしい取り引きかと思ったら、とんだ不良物件を掴まされてさっ。」


「喰えない野郎だ」


トパット゚ミが小さく舌打した。

去り際に後ろ足で砂を引っ掛けて行きやがった、

そんな口調だった。


「それはおめでとう

だが、流れてしまえばまた作り直すしかあるまい?」


「え?」


トパット゚ミの、裡にあるものが何も見透せなかった目が光を放った。

もちろん可視光ではなく、言うなれば黒い光。


両肺にいやな感じが広がり、背骨がずしんと痛んだ。


幻力マーヤー


気づいたときには遅かった。


「はっ・・・

あっ、あ・・・・・」


それきり声も出なくなった。


アマリリスはひきつけを起こしたように痙攣しながら倒れ、地面をのたうち回った。


痛い。痛い。痛・・・


激痛が背中から腰まで貫き、まるでハンマーで太い杭を打ち込まれているようだった。

痛みがさらに収束し、もう暴れることすらできず、背骨が折れそうな程、身体が反り返った。


”死んじゃう”


そう思ったとき、体の奥で何かが千切れる音がした。


獣のような叫びが、森にこだました。

肌を灼くほどに熱い、どろりとしたものがほとばしり出て大腿に飛び散る感触があった。


同時に力が抜け、アマリリスは崩折れるように倒れた。

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