第590話 天の峠の城#1

日没から数時間が経ち、幻力マーヤーの森にも本格的な夜が訪れようとしている。

藍色の闇が、次第に濃さを増して垂れ込め、足元も怪しいまでになっていた。


もう、今日はここで野宿と決めて、アマリリスはダケカンバの大木の根元に腰をおろした。

背もたれになる大きな岩があり、岩肌に沿うように張り出した太い枝が屋根代わりになっていて、

その下の地面はありがたいことに、からりと乾いている。

大気も穏やかで暖かく、これなら火を焚くまでもないだろう。


以前なら、これしきの夜道、迷うことなく突き進んで結局(道に)迷うという、

何度繰り返しても、経験から学ぶことをしないアマリリスだったのだが、

自分一人の身体ではなくなった今、そんな無茶をして転んだりしたら大変だ。


血や、磯の匂いを嗅ぐと胸焼けがするのと、時おり軽い気だるさを感じるのを別にすれば、

身体的な変化はこれといって、まだない。

それでも、胎内に生命を宿しているという自覚は、アマリリスに一種の仮想的な荷重としてのしかかり、

自ずと動作は慎重に、緩慢なものになっていた。


てか。

あたしが、このあたしが”自覚”だってさw。


考えると吹き出しそうになるけど、それでいいのよ、アマリリス。

むしろ今までが、あれだけ無茶ばっかしてよくケガしなかったよね、って話で。



白夜のこの季節、明るくなるまでは3,4時間というところか。

肩にかけたオオカミの毛皮を掻き寄せて体を包み、眠りに入る前に、アマリリスは一晩の宿の周囲を見回した。


そこは幻力マーヤーの森を縦横に走る尾根の一つ、

アマリリスが身を寄せている木陰から、風の通り道となっている狭い鞍部を隔てて十数歩のところに、大きなトウヒの樹が立ち、

そこから沢のほうへ下る坂道と、アマリリスが歩いてきた、大きな沼へと続く尾根道が枝分かれして、闇の中へと伸びている。


樹々の梢から時おり、人の声に似た、うめき声ともすすり泣きともつかないものが静寂しじまに鳴りわたる。

分かれ道の樹の上あたりから聞こえたかと思うと、しばらくして、今度はすぐ背後の頭上から。


何も知らない頃のアマリリスだったら、さぞ薄気味悪く聞こえ、恐怖に取り乱していたかもしれない。

実際、彼らが冬を過ごす南の国では、こうして真夜中に不気味な声で啼くもんだから、凶兆を告げる妖怪として忌み怖れられていたらしい。

けれど夏季にはその声が聞かれず、その間は口を”つぐんで”いると考えられていたとか。


実際には、夏の間は繁殖地である、トワトワトのような北国へと渡り、

今夜のような巡り合わせがなければ、耳にする人間もいない闇夜の森に同じ声を聞かせている鳥なのだが。



トラツグミの声に耳を傾けながら、アマリリスの意識は、夢とうつつの間にさ迷い出ていった。

吐息に合わせて揺蕩たゆたう視界は、この世ならざるものへと形貌を変化させていく。


冬の間、アマリリスをとらえ、雪娘スネグルシュカとともに去っていった夢幻の世界が、

束の間、夏の夜の夢として彼女を訪れようとしていた。

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