第574話 雌オオカミたち

雌オオカミのスピカとの間には、もう一つの思い出があった。


アフロジオンとアマロックの闘争が予想外にも穏便に収まり、頼もしい狩りの仲間として戻ってきてくれたことを喜んでいたら、

アフロジオンとつがいになったスピカが、なんと、突然アマリリスを攻撃してくるようになった。


威嚇してくるとかではない。

倒した獲物にありつこうとしたとき、あるいは寛いで、群れの仲間の間をうろうろしているとき、

全く前触れもなく、白い牙をぱっくりと剥き出して、襲いかかってくる。


最初、まさかそんな仕打ちを受けるとは思わず、脇腹に手痛い一撃を喰らってしまった。

大した傷ではなかったが、それでもしばらくの間、苛立たしい疼痛が残った。

それからは警戒して、攻撃を仕掛けてきてもすんでのところでかわしていたが、だんだん執拗になる攻撃で、左の唇が腫れ、背中や尻にいくつも傷をつけられた。


全く腹立たしい話だった。

オオカミ相手に、友情だとか、面倒をみてやった恩義を期待するつもりはないけれど、スピカになんら危害を加えたわけでもない、

おとなしく心優しい雌オオカミが、こんな目に遭わされる理由はない筈ではないか。


「そりゃ、きみが雌オオカミだからだよ。

雌オオカミで、おとなしくて、弱っちいからだ。

ついでに言えば、きみは別に優しくはないだろ。」


「はぁ?何て!?」


人間の姿に戻れば、オオカミのときに負った傷の疼きからは解放される。

それでも腹立ちの収まらないアマリリスは、明らかに面白がっているアマロックに、憤然と牙を剥いた。


「オオカミにはね、オスと、メスがいる。

ウチの群はしばらく男所帯で気楽なもんだったが、最近雌が2頭も入ってきた。

女に飢えていた雄オオカミどもとしては、やりたくて仕方がない。

アフロジオンが実力行使に出たように、おれを蹴落としてでも、雌にたいわけだ。」


「だったら、雄のけだもの同士、殺し合いでも何でもすりゃいいじゃん。

そういうアマロックはひとつもケガしてないくせに、なんで雌オオカミのあたしがスピカに噛みつかれなきゃなんないのよ??」


アマロックの露骨な表現に顔をしかめつつ、アマリリスは反論した。


「雌でも同じことなんだよ。

雌は雌同士で、雄とは別に順位づけを持っている。

そして一つの群に何匹雌がいようが、子どもを産めるのは1頭だけ。

最上位の雌だ。


きみは、スピカにとってライバルなんだよ。

ライバルだが、順位を取りに行くつもりも、オオカミと繁殖する意志もない。

スピカにしてみれば、出産の時期を迎える前に、自分が上位に立っておきたい。

あわよくば、きみを群から追い払いたいわけだ。」


なるほど理屈は分かったが、それでも不愉快で迷惑な話だった。

自分のダンナアフロジオンウチのアマロックにあれだけ便宜をはかってもらいながらおまえスピカ、、

と憎々しく思うが、もとよりオオカミがそこに感謝を感じる道理もなかった。


アマリリスが纏う、銀色の雌オオカミの身体は、とうに猟師に撃ち殺されたオオカミのものであって、

アマリリスはトワトワトで生き延びるために、それを拝借しているだけだ。

アマリリス自身は、オオカミとしての自己保存に興味はないし、ましてそのことで、オオカミと同じ次元で争いたいわけではない。



――でも、だったらあたしは、どんな次元で生きていこうとしているだろう。


野性の獣の皮を抱きしめる格好で、アマリリスは裸の胸を覆っていた。

噛みつかれた痕に生えてきた白っぽい毛を、悄然と撫でていた。


”アマロックは、あたしの味方をしてくれないの?”


その言葉は喉元まで出てきた。

勇気を振り絞って顔を上げ、アマロックと目があった時、アマリリスはそんな自分を恥じた。


アマリリスにとって、強くあるだけでは生きている意味がない。

けれどアマロックの世界では、強くなければ生きてゆく価値がないのだ。

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