第565話 妖女〈ウェージマ〉の正体

燃えさかる炎を纏って水に放り込まれ、消し炭となった松明のように、

”それ”は半ば水に没して水面を漂い、しばらくは身動きをしなかった。


周囲に集まってきた水底乙女の発する燐光に照らし出される中、

それはやおら、ざばと水面を割って、四つ足で立ち上がった。


まとわりつく薄衣を引き裂き、乙女の長い髪が、頭皮ごとずるりと剥がれ落ちる。

その下から現れたのは、この世のあらゆるものをたばかろうとする悪意に燃えた赤い目、

獲物を引き裂き、血をすする愉悦に歪んだ口から剥き出された白い牙。


アマリリスは息を飲んだ。

その獣の右前足は手首のところで、切り株のように切断されていた。

よかった・・・!

”あれ”は、あたしじゃなかったんだ!


真っ先に湧き上がったのは、それは今じゃないだろう、という安堵だったが、

実際のところその獣は、岬の砦の幻想でアーニャを襲った化け猫のような怪物とは似ても似つかぬ姿をしていた。


隆々とした体躯にがっしりした肩、ふさふさとした尾、

鋭い牙を支えるのは顔の中央に長く突き出た吻。

その毛並みは、はじめ水底乙女の白い衣装や薄い色の髪との対照で黒っぽく見えたものの、

こうして全身を現してみると、アカギツネの血統がイヌ族に紛れ込んだような、鈍く光る茶褐色をしていた。


「ワリー!!」


オクサーナが驚きの声をあげた。

そう、今や凶々しいばかりの魔犬は、もとは百人長ソートニックの邸で、うれいとうるわしのパンノチカ令嬢の傍らにいつも侍っていた、飴色の毛並みの犬だった。

同時にそれは、前髪王子が全幅の信頼を置く忠犬であり、彼の館で若妃アーニャ・ハリネズミのワーニャに仕える騎士であり、

館の家畜たちを、人々には悪ギツネと目されていた獣の害から護っていた、――そしておそらくは獣害の真犯人でもあった、同じ姿形の犬だった。


勤めに対する忠実ぶりと勇敢さで、崇敬と、飼い主への羨望を集めていた、正義と平和の番人ワリーは、

唸り声とともに、今や隠すまでもない憎悪と害意を撒き散らしながら、彼の最終の狙いであり、一度は手に入れたはずだった獲物、

水底乙女となってこの泉に縛りつけられているアーニャに襲いかかった。


しかしその襲撃は、今や彼の正体を見知った水底乙女たちの反撃、

嘲笑とともに彼女たちがつま先で跳ね上げる泉の水、七色に煌めく水の薄膜に阻まれ、簡単に弾かれてしまう。

ワリーは苛立ちの吠え声を上げ、水を蹴立てて二度、三度と彼女たちに迫るが、

これまでに数しれぬ家畜や人々を血祭りにあげてきた魔獣の攻撃が、儚げな乙女たちの防壁に一向に歯が立たない。

水底乙女たちの哄笑は高まるばかりだった。


「ワリー・・・!」


オクサーナはふたたび叫んだ。

その声は悲痛な、懇願するような調子を帯びていて、

ことここに至ってもなお愛犬の裏切りが信じられない、彼への愛着を断ち切れないあるじの、優しい心の発露が感じられるものだった。


「ワリー、ワリー!!」


その声に、オクサーナの下僕しもべはくるりと向きを変え、彼女に向かって走り寄ってきた。

忠犬が主の声に従うままの走りは、その最後に突如豹変し、ワリーはオクサーナに向かって、

彼に差し伸べられた、幾度となく手づから食べ物を与えられた白い手を引き裂くべく、牙を剥いて躍りかかった。

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