第558話 この世界の荒廃

翌日、アーニャは何ごともなかったかのように、前髪王子の館に座っていた。


前の晩に禿げ山の向こうの砦に行ったことも、そこで彼女を襲った怪奇のことも誰にも告げず、

その様子には妙に取り澄ましたようなところがあって、怜悧な知性の光が現れ出ている一方、

彼女らしい暖かな心の発露はどこかに消え失せていた。


実際、アーニャははっきりと変わってしまっていた。


あれだけ可愛がっていた、ハリネズミの弟ワーニャの世話をしなくなったばかりではない。

揺籃の中で相変わらず眠りこけているのをじっと見つめたあと、ばぁやを呼びつけて言うことには、

大鍋を磨き、包丁を研ぐようにとのこと。

そして何と、ワーニャをシチューに料理するように命じたのである。


ばぁやも、前髪王子までもがびっくりした。

昨日まで、自分の寝食は忘れても、揺籃の掃除に、飲み水に食べ物にと腐心していたワーニャを殺そうというのだから。

二人して彼女の真意を質したが、若妃は涼しい顔で同じ返事を繰り返すのみだった。


ばぁやは呆れ返ってため息をついたあとは、

いつもどおり口をもぐもぐやりながら、シチュー鍋を用意し、料理に使うやセロリを集めに、畑へ出掛けていった。


王子は暫く呆然としたのち、結局は若妃とばぁさんの決定に委ねられるべき炊事場の事情なのだからと割り切り、

それにしても、ハリネズミのシチューは胃腸にもたれぬやも知らんと、今夜は館の郎党わかものどもと武人居留地セーチに繰り出すことに決めた。



古来、ウェージマ妖女の使い、あるいは化身とされる黒猫がもたらした害毒によって、

愛らしかったアーニャの性質が、さもしいものに変えられてしまったのは明らか、

他の解釈を持ち出す必要も認められないまでに、尤もらしい考えだった。


黒猫――ほかでもないこのあたしが、この世界に介入したばっかりに。

今日は屋根裏に巣を掛けた鳩となって、アマリリスは館の様子を見守っていた。

喉の奥から自然と出てくる、くっくっという鳴き声は、彼女の悲しみをのせて、

人は居れどもどこかがらんとしてしまった館内に響いた。


”この世界”の荒廃はアーニャとその周囲に留まらなかった。

この夜から、それまでは家畜にとどまっていた獣害が、ついに人間にまで及ぶようになっていった。

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