第551話 星幽体放射#1

涼やかな夜風の吹く月夜だった。

遠い山々の稜線が、大河の水面が、月光を浴びて輝き、川の対岸彼方の森は、深い藍色にくすんでいる。


空には僅かな雲が、月光に光輝と陰影を与えられているほかは晴れ渡っているが、

星は、なにしろ月が明るいためにその輝きをひそめ、特に明るいものがいくつか、ぼんやりとした光でその所在を告げるのみだった。


アーニャと前髪王子の暮らす館の裏手には、ごつごつした岩だらけの禿げ山があった。

漆喰のように固く締まった土から、大岩がにょきにょきと突き出し、そこに捻じくれた松が根を這わせているような様子は、

王子の領地の、緑豊かな山野に森といった眺めの中にあって、とりわけ不気味な場所であり、

迷信深い村人の噂では、毎年夏至祭の前夜には、各地のウェージマ妖女がこの禿げ山の頂上に集まって、いかがわしい宴を催すのだということになっていた。


さらに、例の悪ギツネもこの禿げ山を根城としており、殺戮を終えた悪鬼が、禿げ山の方に戻っていくのを見た、という噂が語られていた。

――その一方では、誰も獣害の犯人を見かけた者はいない、というのがもっぱらの評判なのだから、まったく噂とは奇妙なものだ。

アーニャは噂を真に受けて、自宅の近所にそんな不吉な場所があることをひどく怖がった。


それを知った王子はまたも大笑いして、下手人がそんなところに潜んでいるなら、

最寄りの王子の館だけが被害を免れているのは、よほど有能な守り手を持っているということで、むしろ栄誉だなどとのたまうのだった。

実際に、馬はもちろん人の足でも踏み入れることが困難な場所も多い禿げ山の、岩の隙間や穴の奥に野獣が逃げ込んだら追跡は難航が必至であり、

格好の隠れ処に違いなかったが、ともあれ王子の館が獣の被害を受けていないのもまた事実であった。


満月までもが光を投じることを厭がっているかのように闇深い、不気味な禿げ山を、裸足で進む者があった。

白い寝間着に身を包み、日中は結っていた髪を下ろした娘――ひどく虚ろな目をしたアーニャだった。


野獣や、この禿げ山を、あれほど恐れていたにも関わらず、

そしてそもそも、若妃を安心させるために、前髪王子が厳重に施錠していったにも関わらず、

彼女はなぜこんな時間に一人でこんな場所にやって来たのであろうか。


アーニャ自身、自分の魂がこうして迷い出ていることを知らない証拠に、よく見れば彼女の姿は半ば透き通り、その身を透かして、月光に照らされた山野の遠景を望むことができた。

この夢幻の世界では、人はその心の向かうがまま――頭につきまとう思考を食い止めることができなように、

壁や鹿砦といった実質とは干渉することのない星幽体となって、その家をさ迷い出るのものなのだ。


禿げ山は、頂上まで登りきった先で、大河の川面に突き出た岬へと連なっていた。

アーニャの霊魂はその岬の先端に、古い石組みの砦が立っているのを発見した。

これまで誰も、そこにそんな物があると教えてくれたものはいなかったが、ともあれこうして、眼前の眺望のなかにそれは佇んでいる。


アーニャの発見を待っていたかのように、砦に灯りが点った。

同時に、反転するかのように月と星はかき消え、一面に広がる闇空の下に砦の形だけが浮かび上がった。

光源となる焔はどこにも見当たらないのに、塔や防壁の面はあかあかと照らし出され、

同じ光が足元のそこここに点り、アーニャが辿るべき道を指し示していた。


塔の上に揺らめいている人影があった。

それは実体なき影であり、いくら凝視しても目に映るのはのっぺりとした一色の黒と、黒い色紙を切り抜いてそこに立てたような明瞭な輪郭のみであった。


影はその右手を、くねくねと波打たせ、アーニャを手招きしているようだ。

しかしそんなことをされなくても、アーニャはすでに自発の意志と、赤い光の誘導によって塔へと向かっているわけで、

影に執拗な仕草を続けさせるものは何なのか、

あるいはそれは手招きではなく、アーニャの歩みを投影した揺らぎだろうかと、思えてくるようだった。


砦はその基部において暗く、そして入口となる門も扉も見当たらなかった。

外壁に沿って一周したアーニャは、壁際に立っている大きな樫の木の根元に、人ひとりがくぐれそうな樹洞うろを見つけた。

アーニャは腰を屈め、その身自体が発する仄明かりだけを頼りに、墨を流したような闇の奥へと這入っていった。

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