第550話 キツネ狩り

大河の流れのように、日々は穏やかにすぎていった。

しかし陽光あふれる緑野に一片の叢雲が影を落とすように、前髪王子の領地の村々の間に、ある不穏な話題が持ち上がっていた。

放牧地の羊や子馬、時には家畜小屋の子牛までもが、野獣に殺される被害が出ていたのである。


手口や残された足跡を見るに、犯人はおそらくキツネ、ひょっとすると独りもののオオカミと思われた。

ある晩にはこちらの村の子馬がやられ、その数日後には別の村の羊が、というふうに、ポツリ、ポツリと血の滴るような凶行が続き、その血痕は増える一方だった。

殺戮は決まって夜、不意打ちの形で行われるので、誰も犯人の姿を目撃したものがいなかった。


領民からの訴えの声を聞くまでもなく、前髪王子は獣害に立ち向かった。

むしろ、暫く放念していた武勇を揮う願ってもない機会、それも民の苦難を取り除くためとあってはむしろ天啓とばかりに、

被害の連絡が入るたび、それっ、とばかりに忠犬と、郎党全員を引き連れた大騒ぎでキツネ退治へと赴くのだが、

そういう晩に限って卑劣な下手人は影を潜め、いずれの村にも凶行を働かいないのだった。


若妃のワーニャは獣害の報にひどく怯え、夫に、夜は出かけずに自分と共にいてほしいと哀願した。

王子はいじらしい妻をいたわり、館は2重の鹿砦に護られ、扉も頑丈だから獣は手出しが出来ない、

――実際、王子自身の所有する家畜には何の被害も出ていなかった――

ばぁさんも居てくれるから、何も心配はいらないのだ、と言って宥めた。


それでもアーニャの心は晴れなかった。

自身に危害が及ぶこともさることながら、真っ暗な夜、危険な野獣が徘徊しているとわかっている野外に赴く夫に、

万一の事があったらと考えると、いくら砦や扉に護られていても、寝付くに寝付けなかった。

それを聞くや前髪王子は大笑いし、キツネどころか、自分がいかに凶悪で危険な敵と渡り合い打ち負かしてきたかを教えてやるのだった。


夫が不在の晩、ばぁやも寝室に下がったあとの館の居間で、

昼も夜ももっぱら眠りこけているワーニャの揺籃を揺らしてやりながら、アーニャはひとりため息をつく。

吊り棚の暗がりに溶け込んだ黒猫アマリリスは、翡翠の瞳だけを妖しく光らせ、じっとその姿を見つめていた。


そうこうする間にも野獣の凶行は続き、

獅子奮迅する前髪王子をあざ笑うように、その追跡を巧みにかわしながら、方々の村に嘆きをもたらしていた。

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