第549話 若妃と王子#2
悠久の大河を見下ろす、城塞でもある館には、
前髪王子と、妃のアーニャ、ハリネズミのワーニャ、
忠犬には及ばずとも王子を慕い付き従う、十人ほどの
そして、若い頃からずっとこの背丈だったのだろうか、と訝しく思えるほど背の低い、皺だらけで真っ黒な老婢がいた。
家事全般に加えて、主人から直々にアーニャの身の回りの世話を言いつかっている老婢は、
その風采や年齢、そして身長といったものを補ってひっくり返そうとするかのように、実に働き者だった。
間取りからいって普通なら何人も女中を置くであろう館の膨大な雑務を、
不満をこぼすでもなく、かといって愛想を見せるでもなく、皺くちゃの唇を反芻でもするかのようにもぐもぐ動かしながら、
淡々と、あっという間に、その見た目からいって秘伝の妖術でも用いたかのような手際で片付けてしまうのだった。
主も家人もみな、親しみを込めてこの老女中を”
婆やはアーニャに対しても、その独特の佇まいを変えることはなかったが、彼女のおかげで小さな女主人は、文字通り何不自由なく暮らしていた。
ネコらしい気ままな振る舞いで、黒猫アマリリスは
壺や金杯の間を伝い歩いて、天窓から屋根に出た。
こけら葺きの屋根の天辺からは、遮るもののない広大な世界が見渡せた。
森と山々の間に悠々と流れを運ぶ大河の水面は、鏡のように滑らかで、水音もしなければさざ波すら立たない。
ぱっと見には、動いているのか静止しているのか見分けがつかないほどの広大な水の帯は、見渡す限りの大地を貫いて延び広がっていた。
しかしその
アーニャの夫の王子もまた、戦場を転々とし、館に寄りつくことも稀な武人の血を受け継いでいた。
かつては亡父と、拳骨で、時には剣やら小銃やら持ち出して渡り合い、郎党を引き連れて異族の邑を襲って回った、手につけられない荒くれ者でもあった。
ところがアーニャが来てからというもの、王子を筆頭に、大河も、森と山野の大地も彼女の嫁ぎを祝福するかのように、戦乱の火種は立ち消え、平穏な日々が続いていた。
血気盛んな
黒猫アマリリスは翡翠の瞳の視線を、森と大河の彼方から、間近に広がる彼女の領土へと移した。
館の周囲は2重の
しかし今、軍馬は厩舎に繋がれ、飼葉を喰んでいた。
地面では、数羽のヒヨコを連れた雌鶏が、うろうろと歩き回っている。
にゃあ、と黒猫は鳴いた。
雌鶏が顔を上げ、屋根から自分たちを見下ろす黒猫を認めて、気づかわしげに後をついてくるヒヨコを見やった。
にゃあぉ、と、黒猫は再び、さっきよりも声を張り上げて鳴いた。
それは戯れにこのおとなしい家禽を脅かそうとするかのようであり、
気に入らない、気に入らないぞと、下界のすべてに向かって宣告しているようでもあった。
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