第535話 目醒めて#3
牡ジカもさぞ戸惑ったことだろう。
巨鹿に立ち向かう一頭の雌オオカミ、
その構図は、ブルテリアが単身で暴れ牛を鎮めようとするようなもので、
実際にアマリリスが取った行動も、オオカミの狩りよりも、牧羊犬が家畜を追い立てる場面に似たところがあった。
ヘラジカの周囲を走り回り、あまり吠えないオオカミの常に反して、吠え、唸り、やかましくがなり立て、
牙を剥き、今にも食らいつきそうな勢いで飛びかかるそぶりを見せた。
放っておいてもまるで構わないような相手だったにも関わらず、
牡ジカの身体に刻まれた、野に生きるものの習性は、天敵に対する警戒を払わせつづけ、
分かりきったブラフに対しても、反撃の構えで応じざるを得ない。
一方、襲撃者の方は、撃退しようと牡ジカが追い立てても、追われたぶんを逃げるだけで、その蹄や、巨大な熊手のような角を
緊迫の度合いは薄くても、数時間以上に渡って続く、一向に緩む気配のない執拗な威嚇は、ほとほと閉口させられるものだった。
まるで大型船が、その図体からすれば滑稽なほど小さなスクリューの作り出す絶え間ない水流に押されて、係留された岸壁を離れるように、
ヘラジカはやがて、いまいましげに、ゆっくりと、雌オオカミに追い立てられて動きはじめた。
彼女の中にあって、彼女のものではない記憶に、雌オオカミは導かれていた。
目の前の現実と2重写しになった、強大な巨獣を追い立ててゆくオオカミの影。
雌オオカミは以前の記憶を失っていたのだし、それは彼女自身ではあり得なかった。
だかといって、彼女の群の首領や、仲間のオオカミでもない。
彼らはヘラジカは追わないのだ。
雌オオカミにヘラジカを追う術を教えていたのは、彼女に内在する”彼の女”からもたらされる記憶、
”彼の女”がかつて目にした、ヘラジカ狩りを得意とする女首領の狩猟の技術の断片と、
雌オオカミの身体が引き継いだ狩猟獣としての技能が、それを補完・統合して作り上げた似姿だった。
単調な奮戦が続くにつれ、一頭、また一頭と離れていった。
最後に残ったアマロックは、強まってゆく雪の中、沢の方へと追い立てられてゆくヘラジカと、その周囲を跳ね回るアマリリス、
その後ろを、一定の距離をおいてついていった。
夜半に雪はやみ、翌朝は数日ぶりの朝日が、やわらかな光で雪と氷の森を照らし出した。
沢の湾曲部の内側、夏場は泥深い沼地となっている場所で、表面の氷が割れて穴が空き、黒々とした水面が覗いていた。
ヘラジカは、その身体の半ばを氷の穴に沈め、氷の縁に巨大な角を戴く頭を横たえて、息絶えていた。
水に落ちたヘラジカが岸に戻ろうと、その広い胸で砕氷船のように氷を割って進んだ形跡があった。
濁った水が雪に飛び散り、その上をオオカミが走り回った足跡があたり一面に残っていた。
ヘラジカの奮闘は氷の厚い部分で阻まれ、疲労と低体温によって衰弱しきったところを、オオカミによってとどめを刺されたのだった。
アマリリスはヘラジカの骸の傍らで、まだぜいぜいと息をし、
はじめて得た大物に手をつけることもせず、疲労困憊の態で雪の上に伏せっていた。
子犬が巨象を仕留めたような驚愕の快挙は、しかし、幸運ではあっても偶然の賜物ではなかった。
この場所は、アーニャとワーニャの隠れ処に近く、アマリリスはその「観察」の行き帰りに、
数日前に一帯の氷が割れたこと、だから、雪が積もっていてわかりにくいが、その下の氷は巨鹿の体重には耐えられない厚みであろうことを知っていた。
そして、そこが夏場にどんな場所であったかも覚えていた。
ヘラジカは落水の拍子に脚を傷めたうえ、深い泥に脚を取られ、
アマリリスは一晩じゅう、氷と泥の牢獄から抜け出そうとするヘラジカの周りを走り回って妨害をした。
忍耐に忍耐を重ねた払暁、細心の注意を払って獲物に近づき、その鼻面に食らいついた時、
ヘラジカは苦しそうに身を捩るばかりで、アマリリスを振りほどく力も残っていなかった。
同時に、雌オオカミをして快挙を達成させ得たのは、”彼の女”からの全面的な協調だった。
共有する記憶を通して提供されたもろもろの知識や情報だけではなく、
雌オオカミと”彼の女”が一体であるという感覚、”彼の女”にとって雌オオカミとしての存在が自己そのものだという認識、
そういった”彼の女”の内面変化によって、今日はじめて、雌オオカミの身体が持つ能力を最大限に引き出すことが可能になったのだった。
昨日、アマリリスを見限って立ち去った仲間たちが、三々五々戻ってきて、
一晩、一部始終を見ていたアマロックの周りに集まった。
いつもの、群でのアカシカ狩りでは、誰が仕留めた獲物であれ、群の全員がありつくことができる。
しかし今日に限っては、皆、アマリリスに全面的な権利を認めているようだった。
それがアマリリスには誇らしかった。
もちろん、独占するつもりなんてない。
というよりも、こんな大きな獲物を一人で食いきれるわけがない。
久々の収穫が、仲間たちに、そしてアーニャ、もし帰ってくるならばワーニャにも、
貴重な恵みとなること、それが何よりも嬉しかった。
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