第519話 人ならざるものに逃避#2
アマリリスが獣の身体に逃げ込んだ2つ目の理由は、
この時期のトワトワトで人間の姿で過ごすには、こうして消費せずにはいられない燃料との折り合いだった。
トワトワトの冬がこれほどにも酷寒の季節であるということを、
屋外の、昨年からさんざん見知っている、
アマリリスは2年目にして、しかも寒気や降雪をしのげるはずの屋内で、はじめて真に思い知らされた気がした。
ちろちろと燃える薪の熱と光の及ぶ、ごく狭い円の外側を眺めた。
昨年の冬、ペチカの暖かさと、ファーベルの作ってくれる料理の美味しさに結びついて記憶していた臨海実験所が、
壁も天井も一面の白い霜に覆われ、床に、ペチカの上にも吹き込んだ雪がうっすらと積もり、雪の女王の居城もかくやという白銀の空間になっていた。
霜はまだわかるとして、雪ってどういうことよ、そこまでのあばら家じゃないと思うんですけど。
しかし、外では吹雪の吹きつのる今も、壁と窓枠の隙間や、二階のほうから、ほんのわずかずつ粉雪が舞い込んでくる。
そして一旦吹き込むと、氷点下の室内なもんだから、溶けない。
よく、人が住まなくなると家は傷むというが、そういう原理で急速にあばら家化が進行しているのか。
それとも、去年から吹き込む隙はあったのだけれど、ペチカで暖められていた室内の空気が結界的な働きをして、雪が入ってくるのを防いでくれていたとか。
船着き場の手前の備蓄場所には、石炭も重油のドラム缶も、去年の残りのものがまだ十分にある。
薪小屋には、ヘリアンサスがコツコツと拾ってきては割っていた薪が、呆れるほどの量で積み上がっている。
だからその気になれば、ペチカもボイラーも盛大に火をたいて、臨海実験所全体を暑くてうだるくらい暖めることだってできるのだが、
薪はまだしも、石炭や重油は補給の見込みのない使い切りの資源なわけで。
景気づけのような動機で、そんな大盤振る舞いはできない。
――ではいつ使うのだ?
という考えに押し切られたら、そんなバカバカしいことをやってしまう日もいつか来るのかも知れないけれど、
今のところ、根は小心なアマリリスは、こうして数日ぶりに人間に戻った数時間の暖を取るのに必要最小限の薪を焚くのに留めていた。
暖房として、寝床として、昨冬アマリリスが特別な愛着を注いだペチカは、十分な燃料をつぎ込んでまず石組みの躯体を加熱して、
輻射熱で部屋全体を暖める構造になっており、実に残念ながら、今冬の事情では実用的でない。
いつもアマリリスが薪を焚くのは、裸火を扱いやすい調理
薪に火がまわり、炭化しつつゆっくり燃えてゆく頃になると、
竈の周りだけ、雪の女王の勢力が火に屈服し、雪や霜が溶けて木や漆喰の面が現れ出てくる。
暖炉の精が描いた魔法円の内側にいるみたい。
そんな空想を愉しみながら、アマリリスは何をするでもなく、こうしてチャイを啜ったりしながら人間の時間を過ごした。
人間に戻る場所は、今は流石に、イルメンスルの木の前、というわけにはゆかない。
それに、アマリリスを躊躇させていた、人間たちの生活の記憶も、こうして霜に覆い隠されている今は気にならない。
アマリリスはオオカミの姿のまま堂々と臨海実験所屋内に乗り込んで、玄関脇の『事務所』で人間に戻り、衣服を身に着けた。
薪数本では熱量にも限りがあるので、厚手の服を重ね、ジャコウウシのセーターも着込む。
それで火に当たれば、十分に快適に過ごせた。
そうして、ゆらめく光で本を読んだり、それすらせずにただ炎を眺めていたり。
夜を日に継いで吹きつのる雪嵐も、ひとりぼっちの境遇も、人間としてのとりとめもない考えごとも、
あながち悪いばかりじゃなかった。
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