第518話 人ならざるものに逃避#1
オシヨロフの森に連日の
アマリリスは、いわば人ならざるものの身体に逃げ込むような格好で、オオカミの姿で過ごす時間が増え、一日中人間の姿に戻らない、ということも珍しくなかった。
理由は主に2つ、ひとつは、オオカミの姿でいれば、余計なことは考えずに済むからだった。
余計な考えごとにも色々あったが、あえて序列をつけるならその筆頭はやはり、トワトワトの冬の苛酷さへの怯えだったろう。
昨年の冬がはじまって早々に、オシヨロフのオオカミたちを苦しめた窮乏の記憶は、アマリリスの心に、重苦しい、恐怖と憂鬱がないまぜになったような感覚でのしかかっていた。
それはオオカミたちの窮乏の記憶であって、アマリリス自身が飢餓で苦しんだわけではない。
しかし今年は、いよいよ自分がそこに身を置くことになるのだ。
去年の冬は人間としての生活の拠点が、
冬じゅう絶えることのないペチカの火が入り、望めばいつでも食事を出してもらえる場所があった。
アマリリス自身は、そこを自分の「家」だと思ったことは
その存在がいかに大きかったか、どれほど人としての心に安寧を与えてくれていたかを、今になって実感している有様だった。
微妙な区別ではあるが、アマリリスが恐れていたのは、物質的な困窮や、肉体を蝕む飢餓そのものというよりも、
そういった状況、想像を絶する困難に、弱い、脆く惑いやすい人間の心が耐えられるだろうかという不安だった。
しかしこの不安――、自らの心の揺れ動きを想像して怯えるという滑稽な構図は、どうやら杞憂だったようだ。
恐れ、覚悟もしていたとおり、実際に雪嵐はやがて窮乏を連れてきた。
それは幸い、昨冬はじめにアマリリスを悩ませた長期間の飢餓よりは軽いもので、やがてアカシカの群が戻ってきたが、
それまでの間の窮乏は想像どおり、苛酷で、苦しいものだった。
想像どおりに。
「つまり人間は――ううん、人間だけじゃなくて、生きものはみんな、かな。
たいがいのことには慣れてしまえる、ってことなんじゃないかと思うのよ。」
アカシカが戻り、窮乏は(一時的だとしても)去って、
ようやく人間の姿に戻ったアマリリスは、窮乏の間は決して触れまいと、厳に戒めていた人間の食物、
ファーベルが置いていったチャイを、カップ一杯ぶんのお湯だけ沸かして淹れ、ゆっくりゆっくり啜りながら独り
アマロックにこんなことを言ったって、同じことをサンスポットに伝える以上に話が通じはしまい。
あいにく
だからいっそ今は、臨海実験所の調理竈の中で、チャイのお湯を沸かした後、手持ち無沙汰にほの赤く燃えている炭を相手に語りかけた。
「受け止めきれないことってのも多分あって、その時のキャパを超えたみたいな。
あの、スピカが大事にしてた仔ジカ、、お母さんがいなくなっちゃうとか、どうやっても乗り越えられないようなことがあると、
なんていうの、ほら、、心が壊れちゃってもう立ち上がれない、みたいな。」
”もう立ち上がれない”
その言葉を口にした時、何者かが地底深くから、アマリリスの胸の内側に、ぞわりと黒い触手を伸ばしかけたような感覚が走った。
夢の中に現れた悪霊のように、その顔貌はおぼろではっきりと見分けられないのに、そのおぞましさは、手触りまで感じるほどの明晰さで。
それは、今なお時おり、
その手に捕らえられたら、生きながらにして冥府に引きずり込まれ、アマリリスを飲み込んだ地面は跡形もなくその穴を塞いでしまう、そんな冷え冷えとした奈落の感覚だった。
アマリリスはぞくりと身を震わせ、一方で一刹那の後には、その感覚は、目覚めた後の悪夢の印象のように去ってゆき、正体をつきとめようにも、再び取り戻すことはできなくなっていた。
――それは実際、かつてのアマリリスに取り憑き、彼女を心的な死の直前にまで蝕んでいた悪霊、あるいは
しかしその感覚は、アマリリスの記憶の内側で、幾重にも上書きされ破り捨てられた悪霊の絵のようなものに成り果て、それに触れたところで、こうして断片的な連想を引き起こすことはあっても、その全体を再現することはもう不可能になっていた。
アマリリスは薄気味悪そうに、薄暗い、無人の室内を見回してから、気を取り直して続けた。
「でもそこまで、
心が壊れちゃう、までいかなければ、相当ヘビーなことでも、じきにそれが日常生活になっていって、
だんだんと、重さにも慣れてきちゃう、ってことなのかな。」
冬はまだまだ長い、再び飢餓の時期がやって来ることもあるだろう。
そのことを考えるのは不安で、憂鬱でもあったが、もはや怯えではなかった。
人間の世界を離れて(いや、取り残されて、かな)異界に残ると決めた以上、異界に生きる苦労や困難は、オオカミたちや、なによりアマロックと(❤)一蓮托生なのだから。
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