第517話 内在する誤謬

今日は上首尾に終わったアカシカ狩りのあと、

ひとり群を離れてオシヨロフの尾根をゆく、雌オオカミの感覚の世界には、

いわば、ずっと訂正されずに残っている誤謬ごびゅうらしきものがあった。


人間ならば、当惑や違和感といった言葉で言い表すであろうその感覚は、

ひとつには雌オオカミが、ある時点を境に世界の記憶から完全に切り離された、逆行性健忘のような状況に置かれていることに起因していた。


ある時点、すなわちアマリリスがエリクサの力を借りてオオカミの身体を獲得した時、

生体旋律の表出型としての肉体は、オリジナルのものがそっくり再現されたわけだが、生前に獲得した記憶までが戻ってくるわけではない。

雌オオカミの知覚としては、この世界と自己のつながり、成長の記憶や、自分が何者であるかの認識もなく、今あるままの状態で唐突に目覚めさせられたことになる。


誤謬のもうひとつは、他ならぬ、自らのうちに巣食う”彼の女”の感覚だった。

記憶や意識を共有するという点で、それは雌オオカミの一部であり、雌オオカミ、”彼の女”双方にとって、相手もまた自分自身であるはずなのだが、

その記憶を構成する知覚は、雌オオカミとは異なる身体からもたらされたものであり、その思考は異質な、オオカミには理解の及ばないものを多分に含んでいた。


そして”彼の女”の側から見る雌オオカミもまた同様に、異質な自己ということなのか、

”彼の女”は雌オオカミの自己でもあるというのに――そして現実には、彼女の望みによってオオカミの身体を得ながら、

どうやら無意識に、雌オオカミとの同化を、”彼の女”の自己が雌オオカミであるという認識を拒み続けているふしがあった。


2つの誤謬について、もちろん、雌オオカミには何らの知識があったわけではない。

再生以前の記憶がないことや、自己の内部に異質な他者が存在することが、異様だという認識もなかった。

記憶は失われていても、この世界でどのように、何を獲物に生きればよいかといったことは、いわば身体に刻み込まれた先天的な知能であって、

雌オオカミがそれを駆使して、オオカミとしての生活を築くことは十分可能なはずだった。


しかし、”彼の女”の秘かな拒絶反応は、わずかだが確実に存在する不整合となって雌オオカミの意識の完全な統合を阻害し、

アカシカ狩りのような、高度な判断を要する場面での活躍を難しくしていた。


かくしてアマリリスは今日の狩りでもからきし見せ場はなく、

アカシカの群を無闇に追い立てはしても戦力にはならず、アマロックやサンスポット、スピカまでもが加勢して、狙い通りの一頭を狩り倒すのをただ遠巻きに眺め、

それでも群に所属する恩恵として、食べる分には十分以上に食べてきた、というわけだった。

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