ふたたび・雪と氷のトワトワト

第516話 ニフルハイムの空

ああしかし、まったくこの世には、なんと恐ろしい世界があったものだろう・・・!


地吹雪はすさまじい唸りをあげ、とぐろを巻いた幾疋もの白竜のように、オシヨロフの背を叩きのめして走り抜けていった。


地表にはこれだけ雪片が渦巻いているが、実のところ頭上に雪雲はなく、だからそれがもたらす降雪もなく、空は明るい。

視界も澄んでいて、海崖の上に広がる幻力マーヤーの森も、遠くの山々までも今日はよく見えている。

それだけにかえって、ありありと、それらの一切が凍てつき、連日の吹雪ヴェーチェルに痛めつけられた姿を見るのは、ある種の恐怖ともいえる寒々しさだった。


カラカシスの古叙事詩に残る言い伝え、

この世の北のはてには、天地創造以前から存在し、永久の雪と氷に閉ざされた世界があるという。


なにしろ、何も生まれず、燐寸ほどの火が灯ることもない地だから、

華々しく神話を彩る、天上の神々の世界、地上の英雄や、恐ろしい魔獣や巨人の棲む国と比べると、詩人たちの関心は格段に低く、

そういう世界がある、ということ以外、叙事詩の中で触れられることはほとんどない。


そんな、忘れ去られた世界が、実際にはこんな場所、こんな光景が広がり、こんな雪嵐の吹きつのる世界だと知ったら、

叙事詩作家も何か書き残す気になっただろうか。

”神に忘れられた土地”と呼ばれ、この地上のほとんどの人間が、そこがどんなところか知らない土地、トワトワトに――



実際、今この時に限って言えば、オシヨロフ岬を含む、見渡す限りの森と海に、「人」は存在していなかった。

銀の毛皮の雌オオカミは、分厚い風衝の壁となって向かってくる地吹雪の下をくぐるようにて、雪原すれすれを進んでいった。


雌オオカミがその意識や記憶の一部を共有し、今も彼女の両耳の間に留まっている感覚の”彼の女”が、

この世界を異種族の目で見、頭脳で感じ考えたことは、彼の女との意識の重なり合いを通じて、雌オオカミの意識の中にも浸潤してきていた。


けれどそれらは雌オオカミにとって、自分との関わり合いの薄い、たとえば小鳥のさえずりを聞くのと同じように感じられるものであって、

そこに空気の振動や感情の震えがあることは知覚しても、その正体が何であるかは理解しないもの、まして、

”共感”するなどということは、文字通りことだった。


野に生きる獣として、雌オオカミは、人間は足元にも及ばないその鋭敏な知覚で、

雪と氷に幾重にも塗り重ねられた森を、大地の積雪を剥ぎ取って舞い上げる激しい気流を、

そしてそれだけ覆われたり削り取られたりしてもなお、か細い糸のようにたなびいてくる、獲物、敵、どちらでもない生き物たちがはなつ気配を、

この世界そのものを感じ取るのだった。

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