第513話 檳榔樹〈びんろうじゅ〉の森#1

トワトワトが、氷霧に閉ざされた雪と氷の世界だとすれば、

こちらはもうひとつの別世界。


マグノリア、カラカシスよりもずっとずっと南、

ファーベルも、ヘリアンサスも、そういう土地のことは伝え聞きや本の中でしか知らない、終ることのない夏の続く国。

光線の圧力まで感じるような強烈な日差しのもと、紺碧の海が広がり、

遠い島影の上には、真っ白い入道雲が天高く聳え立っている。


旺盛に葉を茂らす木々は海際ぎりぎりまで、どころか場所によっては海の中にまで進出し、

海底の泥に、念入りに打ち込まれた杭のような支柱根の周りを、海老や蝶々魚が泳ぎ回っていた。


その地では住人もまた、木々を見倣って、遠浅の海面に柱を並べて住まいを建てている。

そこから直接、床下にもやった丸木舟に乗り移り、

海中林を縦横にめぐる水路に、沖合に白く波頭を立てる珊瑚礁に魚を求め、時には集落協同で儒艮じゅごんを狩ることもある。


一方で、海岸近くの林で、果樹やサゴヤシの実りを求めることはあっても、ここの人々は森の恵みには多くを期待しなかった。

海中林の後背からはじまり、じきに恐ろしいばかりの緑の塊となって、この巨大な島の中枢へと果てしなく続いていく森は、

一本一本に樹種が違うとまでいわれる多様な樹々、巨木を頼りに繁茂する、ありとあらゆる種類の蔦草や着生植物、上下方向にも広がる空間を跋扈する、この森でしか見られない数々の獣たちと、

海に勝るとも劣らない豊穣の世界である。


しかし人間はどこか遠慮がちに、稀な用件のある時に限って、森に立ち入ることにしていた。

たとえば、船の建材にする大木を伐採するために森の奥に踏み入れるような時、何かに追われるようにして用事を済ませようと務め、そして決して火を絶やさなかった。


それはまず第一に、熱帯の業病から身を守るという実用的な効果のために受け継がれてきた習慣であったが、

直接的には、業病も含む森の恐怖を表象する存在への畏怖として言い表されている。


相手が魚や獣であれば、何であれ人々は恐れない。

海中林の入り組んだ根の奥に身をひそめるわにも、素潜り漁の時にうようよと寄ってくる撞木鮫しゅもくざめの群も、

森の樹々を住まいとする隣人、巨大な赤毛の類人猿も、昼なお暗い林床を走り抜けるひょうも、象、犀、水牛といった巨獣たちも、

それらが魚や獣であって、接し方を誤らない限り危険のない相手だとわかっている分には彼らは恐れない。


しかしこの森には、人の姿を有しながら人ではない、

獣でありながら人を超越した存在が住まい、時に女をかどわかし、森に踏み入れる人を餌食にしてきたのである。

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