第509話 不合致の幻影

見る見るうちに光の量が減り、闇に置き換えられていく湖畔の野末で、

アマリリスにスピカと名づけられた雌オオカミの視界の中、その小さな生き物は、細い首を弱々しくもたげ、冷たい風の匂いを虚しく嗅いでいた。


常に、蠕動するように小刻みに震えているが、時おり強く風が吹きつのると、まるで鞭打たれたように全身をわななかせる。

雌オオカミがその身を触れ合わせようとすると、相手もそのぶん遠ざかって距離を保つ。

これも何百回繰り返したか知れない動作だった。



まるい頭から突き出た、左右互い違いにはためくような動きをする大きな耳、

幼さの中に神妙な表情を作り出している鼻面、雌オオカミとは決して視線を合わせようとしない、黒々と濡れた瞳。


そこに重なり合おうとする何ものかを、雌オオカミは黄色い瞳で見つめる。

彼女はこの生き物に出会ってから、ずっとそれを見つめ続けてきた。


それは、その輪郭は想起も困難なほどおぼろに崩れながら、まばゆいばかりの鮮やかさで雌オオカミの視線を惹きつける。

あるいは、吹雪―― 雌オオカミがオシヨロフの群に居場所を見出す結果になった、山上の雪嵐ヴェーチェルの奥にひらめき、彼女を招くと同時に、吹雪の中に消えていこうとする。


それは、実際に雌オオカミが、あの吹雪の山の向こう、旧来の住み処に置き残して来たものの幻影だった。

病苦の末に、最後まで残った一匹があえぐ息と、それが聞こえなくなったあとの沈黙もまた、彼女の耳に残っていた。


スピカが何かを感じていたとすれば、いつになっても一向に、その幻影がこの小さな生き物に重なり合わず、沈黙が沈黙のままであることに対する戸惑いのようなものだった。

それであっても、雌オオカミはずっと幻影を見つめ、沈黙に耳を傾け続けていた。

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