第499話 雌狼と仔鹿#2

3日前、

アマリリスも加わっての(というより、相変わらず役に立たないのでみんなの後をついていった)アカシカ狩りは長引き、

北方、女首領のオオカミ群のなわばりにかなり入り込んだところでようやく、落伍した1頭を仕留めることができた。


オシヨロフの群と女首領の群では、主とする狩猟対象が違うために、両者の関係は険悪なものではなかったが、

とはえいえ野にある獣の間柄に友好はあり得ない。

無用ないさかいを招く前に、詰め込めるだけ腹に肉を詰め込んで、自分たちの領地に戻ってきた。


人と獣が理解し合えるとしたらこういう部分なんじゃないかと思う。

オシヨロフの群は満腹がもたらす寛容と穏和の空気に包まれ、アフロジオンが3兄弟に仕掛けるちょっかいも、

いつものキレを欠いた感じの、仔イヌのじゃれつきのように映るものだった。


そんな状況でも、周囲に注意を払うことを忘れない、まじめなサンスポットがはじめに気づいた。

そこは湖水の岸辺、湿原から草原へ、さらに低木林へと遷移しつつある一帯で、

シャクナゲの枝が地面すれすれまで垂れ下がった茂みに、はじめは鼻先を低く下ろしてにじり寄っていき、

やがて1,2歩さがってから、広い胸で茂みに体当たりしてゆくような動作を見せた。


3度めに、たまりかねて”それ”は茂みから駆け出してきた。

苛烈な異界の野を果敢に生きる獣、というよりは、針金細工のように細くひょろ長い四肢と頸に、申し訳ばかりに胴体と頭が載っているといった様子の、アカシカの幼獣だった。


サンスポット以上に張り切って、アフロジオンが追い立てにかかった。

仔ジカは逃げようと、ひょろ長い四肢を持て余すようにして懸命に駆けるが、その構図はゴキブリに狙われたザトウムシみたいなもので、逃げ切れる目は到底なかった。


一方で、追う側のアフロジオンやサンスポットの動きはまるで真剣味を欠き、仔ジカが逃げ回るのに合わせて無闇に追い回しているという風情だった。

それもそうだろう、満腹している今、オオカミたちは仔ジカを”足のついた肉”としては見ていないわけで、仲間内のじゃれ合いに、面白いおもちゃが飛び込んできたといった構図なのだ。

それでも彼らは、遊びがこうじた子どもがおもちゃを壊すように、最終的には仔ジカを殺してしまうだろう。


野にある獣による、遊び半分の無益な殺生というのは、何ら珍しいことではない。

オオカミが、同じく死を運ぶ動物としての間柄から、人間には同盟者のように映るワタリガラスを、相手の反応を試すかのように、不意打ちで捕まえてバラバラに引き裂いてしまうことがある。

もちろん食べはしない。


ヒグマが、アカリスの冬の蓄え、岩の下に隠された木の実を盗もうと岩をひっくり返して、

そこに運悪く居合わせた貯蔵庫の主を見つけようものなら、捕食という動機はあとづけにして、真っ先に叩き潰してしまう。


それに対する報復の動機がなくても、母兄弟を失って森をさまようヒグマの仔を見つけたアカリスは、その頭上で執拗に騒ぎ立て、他のヒグマやオオカミといった天敵をおびき寄せようとする。


獣が野蛮で残酷だということではない。

世界が悪意と憎しみにあふれている、ということでもない。

人間が見いだしたがるような調和や共存の精神は、人間の内面にしか存在しないというだけのことだ。


人間の身体でいたら止めに入っていたかも知れないが、その時オオカミの身体だったアマリリスは、

一緒に追い立てはしないものの、アフロジオンたちが仔ジカを嬲るのを、ただ傍観していた。


そのとき、予想だにしないことが起こった。

単純な意外性という以上に、その出来事の意味する異様さに気づいたのはアマリリスただ一人、それも人間の姿に戻ったあとだったが、

へらへらと仔ジカを追い立てるアフロジオンの鼻先をかすめるようにして、雌オオカミのスピカが、仔ジカとオオカミの間に割って入ったのだ。


食後の軽い運動に興じていたところを、いきなり横っ面を張られたような格好になったアフロジオンは、ぶざまにたたらを踏んでよろめいた。

スピカは仔ジカをその背後に庇いながら、これまで彼女から聞いたこともない猛烈な唸り声を、アフロジオンを筆頭とするオシヨロフの7頭に向かって浴びせかけてきた。

体格では遥かに勝るアフロジオンが、雌オオカミのすさまじい、どこか狂気すら感じさせる獰猛な威嚇に鼻白み、そういう時には頼りとする、群の首領の顔色をうかがった。


群に不和をもたらす個体が、排除、ときには殺されるのも珍しいことではない。

特にそれが新参者である場合には。

アマロックはしばらくじっと、スピカを眺めていた。

その刺すような眼光に見据えられても、スピカは一向に怯む様子なくアマロックを睨み返し、ますます甲高い唸り声を上げつづけた。


アマロックはやがて、何事もなかったようにスピカから視線を逸らし、手下を引き連れて森の方へと去っていった。

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