第498話 雌狼と仔鹿#1

夏場は人間の背丈を隠すほどに生い茂る、オオハナウドやエゾニュウの草むらも、中心の太い茎を残して、枝葉はみな枯れ果てて、褐色の骸骨の林みたいになっていた。

見通しが良くなったのは助かるが、逆にこちらの姿も目立ちやすいというのは悩ましいところだ。

枯れ茎の林を透かして目当ての所在を確かめてから、アマリリスは大きく迂回し、風下から近寄っていった。


異界の住民に、相手に気づかれることなく人間が接近する、というのはかなり熟練を要する仕事だ。

アマリリスだって、予め相手の位置がわかっていなかったら不可能だっただろう。

チャームポイントの綿毛も散り果てて、薄茶色のほうきを逆さに立てたようになっているワタスゲの茂みを、四つん這いで進むことしばらく。

枯れ草の野に突き出た、スピカの頭と肩が見えてきた。

苦心の甲斐かいあって、こちらにはまだ気づいていないようだ。


アマリリスが自ら、異界での振る舞いに細心の注意をはらう、などというのは、ほとんど記憶にないことだった。

幻力マーヤーの森を一人で彷徨うようになった時から、異界はいわば彼女の魂の内面にある領域であり、

そこで起こることに心を驚かせ、恐怖や悲しみ、時には喜びを感じることがありはしても、誰かに何かを気兼ねするような場所ではなかった。


しかし今この湖畔の草原に居着き、なかなか扱いづらい相手となった風来の雌オオカミは、

接近者の気配を感じ取ると、それが人間でもオオカミでも、猛烈な警戒の唸りを浴びせてくる。

それでこちらに害があるわけではなく、放っておけばいいようなものなのだが。。。


実際、群の他のメンバーはスピカがこうなってから、彼女に近づこうとはしない。

しかしアマリリスは、行きがかり上(かつ、人間の姿でいるときは)そうあっさり割り切ることもできず、

スピカと、彼女が庇護する珍客のことを気にかけ続けていた。


左手に湖水を見渡す小高い丘に這い上がると、スピカの横にうずくまる小さな生き物が見えてきた。

よかった、今日も生きてる。

アマリリスはほっと胸を撫で下ろした。


両者の関係に変化は見られず、その小さな珍客は相変わらずスピカに打ち解けない様子だ。

――それも、本来、つまり普通はそうあるはずの両者の関係を考えれば当然のことだろう。


一面の枯れ模様の原、スピカの毛並みもまた、長年の雨風に色褪せたような風合いである中に、

まるでたった今したたり落ちた琥珀の雫のような、濃い赤銅色の毛並みに、白雲母の結晶をまぶしたような白い斑点。

痛々しく思えるほどに華奢な四肢と首筋の、まだごく幼いアカシカの子どもだった。


常に不安にさいなまれているであろう小さな命が、スピカが唸り声を上げるといっそう怯え、消え入ろうとするかのように身をすくめるのが可哀想で、

アマリリスは極力、スピカを刺激しないように気を配っていた。

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