第488話 パブロフシステム、あるいは愛の心

幻力マーヤーの森をさまよう者への導き手としてはもちろん、

こうしてすぐ足元で会話している状況での照明としても心許ないランプの灯りのもとで、

ヘリアンサスは意外にも、表面的には落ち着いた様子で魔族とその伴侶になろうとしている姉を迎えた。


魔族は少年に対して、アマリリスがくどくどと並べ立てたようなこと、

彼が残留しようとする意志の解釈だとか、それが不必要で愚かな選択だといったことは一切言わなかった。


ただ、そうなると都合の悪いことがある、

それはおまえ自身が望まないはずだ、と告げた。



「おまえには、本当のことを教えてやろう

ファーベルには内緒だ」


アマロックはじっとヘリアンサスを見つめた。


「おまえの父の名にかけて誓え」


「・・・誓う。」


アマロックはにやりとして話しはじめた。


「魔族には魂がない、というのは人間のことばだが、実際そうなんだと思うよ。

おまえたち人間は、ある面では実に分かりやすく浅はかな一方で、

時として理解できない理屈で物を言い、不可解な行いをする。


不可解なのは、おまえたちには魂があり、おれにはないからなのだろう。

それはまあいい。


おまえは不思議に思わなかったか。

なぜこのおれが、ファーベルのことは気に掛けて、彼女の望みを聞いてやり、危険から守ってやっていたか。


ファーベルを愛していたから?

それはありえない。

魔族には、魂がないんだからな。


クリプトメリアは知っているよ。

魔族の脳には、『パブロフシステム』という、妙な機構を実現する回路がある。


普段は眠っている機構システムだが、ある日突然、特定の人間を対象に動き出すことがある。

そうするとその魔族は、対象となった人間の危険や、不快な感情だとかを放っておけなくなる。

そういったことを察知すると、そうだな、言ってみれば、呼吸が出来ないような苦しさに襲われるんだ。

相手が安全で、快適な状態にないと落ち着かない。


で、おれのパブロフシステムは、どういうわけかあいつに対して動きはじめてしまった。


だからおれは気を配って、ファーベルを危険にさらさないし、

怒らせたり泣かせるようなこともしない。

ただそれだけのことだ。


我ながら不可解で不条理な機構システムだ。おれだって遊んでいるわけじゃない。

本当なら、人間の娘のお守なんかしている暇はないんだ。


そんな厄介な機能だが、解除する方法もある。

他の奴に、対象の保護をさせればいい。

それで対象の安全と快適が保証されるなら、自分の手足を使って保護するのと同じことだからな。


おれはそういう他の魔族なり、人間を待っていた。

それがお前というわけだよ、ヘリアンサス。


これでわかったろう。

おれは、自分の意思でファーベルを大事にしていたわけじゃない。

ファーベルに対して、何か願う事があったとすれば、ただ一つ。

あいつが死ぬ事だ。

それが、パブロフシステムを解除するもう一つの方法だ。


おまえは、魂を持つ人間として、そんなおれにファーベルの保護を続けさせたいかね?」


「そんな・・・

ファーベルは、あんなにお前のことを慕ってるんだぞっ!?


なんとかシステムか知らないが、それをお前は死ねば良いって、それがお前の本心か!!

あんまりだ。

お前みたいなケダモノこそ死ねば良いさ、でも、ファーベルがあんまりにも可哀想じゃないか!!!」


アマロックがにやりと笑った。


「そう思うなら、おまえはファーベルと一緒に行ってやれ。


おまえと離れれば、ファーベルは苦しむだろう。

あの子に害をなす物から、守る者がいなくなるだろう。


だからおまえが守ってやれ。

そうでなければ、せっかくファーベルと離れたとしても、おれのパブロフシステムはおれを解放しない。


仮におまえとアマリリスでここに残ったところで、おまえは野垂れ死にするだけだ。

アマリリスは、生きていける。

獣だからな。」


うなだれるヘリアンサスを、アマリリスは苦い思いで眺めた。


アマロックの告白がショックだったから、ではない。


アマロックがパブロフシステムと呼ぶもの、それは、人が人を愛する心そのものだ。

それをアマロックは、不本意な機能の望まない発現という。


人間世界では権威ある教え、”教示の書”は、

人間には魂、神から与えられた不滅の霊があり、人を愛する心こそが魂の枢軸だと説いている。

それを、魔族はこのように説明づける。

他ならぬ、自分自身の愛の心を。


アマロックにとってはそれでいい。

でも、人間は?


このような愛の解釈に触れた人間が、その枢軸、心のよりどころを、ゆるぎなくもちつづけてゆけるのだろうか?

アマリリスは、弟がそれに思い至らないことを祈るばかりだった。

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