第486話 円環の破断#2
食後、少し話をしよう、というクリプトメリアに連れられて、
実験棟のダルマストーブの前でコーヒータイムとなった。
執拗に説得されるのかと思ったが、クリプトメリアは、一般的な事実を一つづつのべ、確認して行くだけだった。
人間社会との接点を断ち、異界に一人で住むというのがどういうことか、逆に人間の街に帰れば、どういったことが可能になるか、といった類いのことだ。
なるほど、そういう見方もあるのか、とは思ったが、人間世界を棄てて魔族の世界に暮らします、と言っている者に、税金を納めなければ、社会的地位が失われ、年金がもらえなくなるだとか、大学を卒業すれば、特種官僚の受験資格が得られるだとか、そんなことを話して意味があるのだろうか。
今一つ、クリプトメリアが何をしたいのかわからない。まるで役所の手続きの説明でも聞いているようで、ひょっとして何かの義務感から説得しているのだろうか、と訝りさえした。
最後の「わかりました」をアマリリスから引き出し、クリプトメリアはソファーの背に深く身を預け、両手を組み合わせ、深いとび色の目で、じっとアマリリスを見つめた。
じつはここからが本題だった。
「言っても聞かんだろうから、引き止めはしない。
だが、覚えておきなさい。
何度も言ったが、あれは野性の獣なんだ。
私も、この道を探求する学者の端くれだ。
野性が、決して単なる牙も爪も血まみれの野蛮ではなく、その本質は実に美しい世界だと知っている。
自らを万物の霊長などとうそぶく人間よりも、ずっと気高く、崇敬に値する生き物かもしれん。
だが、美しいことと、そう生きるべきかというのは別の話だ。
われわれの、見苦しく、浅ましい生活を支配するのは、
もっと身近で温かく、人間らしい矛盾に満ちた願望や知覚といったものだ。
魔族の世界には、それがない。
解るかね。
君は、アマロックを愛し、奴と生きる道を選んだ。
だが、魂をもたない魔族が、人を愛することはないのだ。
分かっていると言うだろう。
だがそれは、頭で理解している知識だ。
バーリシュナ、あなたが真に身を以ってそれを知った時、再び生きるよすがを失うことにはならないか。
私はそれだけが気掛かりだ。」
アマリリスは緊張した面持になって聞いていた。
クリプトメリアの言うことは良く分かる。
いつか、アマロックは私を見捨てるかも知れない。
それどころか、自らの手で私を殺すかもしれない。
なんの躊躇いも苦悩もなく、当然のこととして。
足元にぽっかりと穴が空いたような、苦い思いのする考えだが、そこまで考えても心が揺らぐことはなかった。
アマリリスはゆっくりと、深くうなづいた。
短い沈黙があった。
もう引き止めないとは言いつつ、最後の説得だったのだろう。
万策尽きたクリプトメリア博士が、今では淋しげな笑顔となって言った。
「正直に告白するが、後悔しているんだ。
あなたがアマロックと親しむことを阻害せず、時にはけしかけさえしたことを。
いや、怒らんで貰いたい。
私の勝手な独白だ。
君達を保護するべき立場にありながら、一人の心は、魔族にさらわれてしまった。
あなたのお父上には、殺されても文句を言えないよ。
無責任な私を許してくれ。
あなたの幸せを祈っているよ、アマリリス。」
クリプトメリアが立ち上がり、大きく両手を広げる。
アマリリスはそっとその胸に身を寄せた。
父とは違う、アマロックとも勿論ちがう、熊のような大男の、無骨な抱擁だった。
アマリリスは初めて自分の決断を後悔した。
これほどにも、温かく実直な愛が、この家にはあったのだ。
「最後にもう一つだけ。」
クリプトメリアが少し身体を離して言った。
「どんな理由でもいい。
私達に会いたくなったら、いつでも尋ねて来なさい。
マグノリア大学の生体旋律研究所に来れば、確実に私を見付けられる。
マグノリアまでの船賃に必要なカネは、ここに置いて行く。
嫌でもこれは受け取るんだ。いいね。」
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