第443話 赤の女王の姿を見たものはいない#2

いつしかバハールシタとチェルナリアの長姉の姿はなく、

久々に姿を見せた父が、床に伏せて動かないオオカミたちの傍らにひざまずき、サンスポットの毛皮を撫でていた。


「太古の昔、私らの祖先もオオカミと同じような狩猟と、採集の民族だったんだよ。」


そうね。でもそれ、お父さんじゃなくて、臨海実験所の百科事典に教わったんだけどね。。。


父は、ベラキュリアが誂えたんじゃないかと思う、灰色の重そうなマントを羽織り、同じ灰色の大きな鍔の帽子を被っていた。

そのせいで顔は見えなかった。

マントの下は、やはりそんなものを着ているのは見たことのない、教会の司教が着るような詰め襟の服、手には長い杖――いや、穂先がついているから、これは槍か。

それでもこれは、確かにお父さんだ。


「その時代、人間は滅多に餓えることもなければ、労働の苦役も現代よりずっと少なかった。

鹿が少ない時期は野牛を狩ればよい、樹果が不作の年は根菜を探せばよいという具合でね。


困窮と苦悩は、数千年前―― コルムバリアか、あるいはカラカシスの片隅に生えていたこの草に、人間が出会った時にはじまった。」


槍を掴んでいないほうの父の手には、一房のコムギの穂があった。


「狩猟採集民から、コムギを育てる農耕への移行は、人間を少しも幸福になどしなかった。

コムギだけに食物を頼ることは深刻な栄養欠乏をもたらし、収穫には多大な労力を必要とし、ひとたび冷夏に見舞われれば、ひょうが降れば全てを失う、不安定な生活を強いることになったが――

ただ、コムギは人間がその人口を殖やす、その一点に協力し、今日に見られる”万物の霊長”の繁栄を支えてきた。」


知ってる。

それを聞いたのは誰からだったろう、百科事典?――じゃない。

本当にお父さんからだったっけ??


「『教示の書』が伝える神話、

人間がかつて住んでいた楽園を追放され、生存のために最初に選んだ職業が農耕民だったこと、そして彼が人類最初の殺人者であるというのも偶然ではない。

神話の伝承者は、何が起きたか、そして何が起きるかを知っていたのだよ。


そんな人間に、”産めよ増えよ地に満ちよ”と命じたのは誰だったか――。

”地の獣や鳥、海の魚、緑の草すべてを征服し従わせよ”とは、誰の利益にくみする言葉なのか。

むしろ、人間とともに、人間を利用して世界中に拡散し繁栄したある草、意志や意識などあるはずもないコムギこそが、世界の主人なのではないだろうか。」


「でもここはトワトワトなのよ、コムギなんて育たない。城砦にだって、一本も生えていないわ。」


自分の言葉の意味すらほとんど理解しないまま、アマリリスは強い確信とともに言った。


「だとしたら、誰の意志なの?

そして、」


会話の相手が入れ替わってもずっと感じ続けていた、不可視の存在を意識して言った。


「赤の女王はここで何をしようとしているの??」




緑のじゅうたんの上で、きらきらとさざめく光の円を見ていた。

それまでのことが、眠りと目覚めの狭間の夢だったのだと、そして思ったことを全て口に出していたのだろうなと考えてばつが悪くなった。

アマロックは一向に気にする様子もなく応じた。


「ではそれを確かめに行こうか、バーリシュナお姫さま。」


「・・・は? 何て??」


「呼び出しだ。

女王、というのはこの城砦のが、面会するそうだよ。」

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