第396話 おはなしにならない

アマリリス達が現れる少し前、

マフタルの視線の先にいた少女は、彼女の母が戻ってくるなり、皮帯にしがみついて揺さぶりながら”わめき散らした”。

おかげで、緩めつつあった結び目がばらりと解けてしまった。


{ユクーー!こいつもぅ全然ダメっ、

まるでおはなしにならないよ。}


#おはなしにならないか。字義通りの意味でね。


ユクは辛抱強い母親のため息を漏らして、脱げ落ちた皮帯をそのままトヌペカに預け、

さきほど脱ぎ捨てていった長衣を拾い上げた。


{。。。って、なに?}


外の言葉レプンイタクの中には、そういう言葉もあるのよ。

手技や、声だけじゃなく、板や布に刻んだ模様で会話する人たちがね。

――で、何がダメだって? まじめにあんたの言うことを聞いてるじゃないの。}


手早く長衣を羽織り皮帯を締め、長い黒髪に頭巾キラウを巻きながら、ユクは相変わらず取り澄ました表情の「こいつ」に目を細めた。


{”こんにちわ”って言ったら”こんにちわ”まではいいけどさ、

”あなたの名前は?”って聞いたら、”あなたの名前です”って違うっしょ、テイネ[仮]でしょ、ってなんべん教えても出来ないの。

バカ犬にちんちん教えるほうがまだ見込みがあるわ。}


{だから言っておいたじゃないの、人間とは違うのよ、って。

いくら教えたって、その子は”話せる”ようにはならないわ。

どうせ誰も私達の言葉イタクなんかわかりゃしないんだから、それっぽく見えさえすればいいのよ。}


とはいえ同語反復ばかりでは鏡写しのような観があって、注意深く見れば不自然さに気づかれるかもしれない。


トヌペカの母は、トウゾクカモメがケイマフリの巣から盗んだ卵を丸呑みするのに要するほどの時間をかけて思案してから、その長身の膝を折って腰を下ろした。

そして自分の胸を指し、「テイネ[仮]」の注目を促した。


””私たちの沼の水まで日照りで干上がり

私たちは乾きに苦しんで泣いていました

そこへ神様のように美しく気高い娘が通りかかり

私たちを憐れんで言いました

’まあかわいそうに 暑くて乾いて苦しかったでしょう

’私があなたたちをたすけてあげましょう

娘は私たちをふきの葉にくるみ 

きれいな湖まで運んでくれました”” *


群族に父祖から伝わる古謡の一節を、落ち着いた丁寧な手話で歌って見せてから、

母は、やってみなさいとテイネ[仮]に促した。


トヌペカが目を丸くしたほどに、テイネ[仮]は決して短くないそのうたを、完璧に復唱して見せた。

母は頷いてテイネ[仮]の頭を軽く撫で、再び同じうたを歌いはじめた。


””私たちの沼の水まで日照りで干上がり


母がそこで切って促すと、テイネ[仮]が後を継いだ。


””私たちは乾きに苦しんで泣いていました


頷いてその手を制し、再び母が歌う。


””そこへ神様のように美しく気高い娘が通りかかり


今度は特に促されることもなく、テイネ[仮]は続けた


””私たちを憐れんで言いました


{大丈夫そうね。トヌペカ、あんたが相手してみて。}


二人の交互唱を薄目でしばらく眺めて、母は頷いた。


{まぁこんなものかしらね。

会話がいつも””私たちの沼の水””で始まったらおかしいから、

どこで始めてもついてくるように仕込んでおいて。

念のため3番まで。}


トヌペカの母はそう言って、慌ただしく立ち上がった。

今度は、別の牢に囚われている群族のメンバーたちの所に用件があった。

気が進まないが、テイネのことを彼の母親には話しておく必要があった。



* 引用:知里幸惠編訳「アイヌ神謡集」より

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