第390話 かけがえのない贄

干からびかけていたところを恵みの雨に打たれたヤナギランのように、蘇った生の光で全身をきらめかせているかのような若い娘を、

とおに若い娘とは呼ばれなくなった女は、静かに、しかし立ち去ろうともせず、冷ややかに眺めていた。


やかましく、威勢は良さそうに見えて臆病で優柔不断。

見るからにフレシャモ文明社会の住人だろうに、なぜこんな異界の奥地にいるのか。

余程ものの解らないおバカさんか、でなければこれまでに苦労らしい苦労も知らずに育ってきた世間知らずに違いない。


こういう娘に限って、物珍しさに惹かれて魔族などに近づこうとする。

それがどれほど危険なことか、フレシャモはまるで分かっていない。

魔族は愉楽と災厄を貼り合わせた仮面を被った虚無であり、その内側に自分の顔を持たない、そういう存在なのだ。

トヌペカの母の目にアマリリスは、自分では恋人の座に収まっているつもりで、

その”恋人”が、食料にするつもりか、あるいはもっと邪な思惑で異界に引き入れた危ういにえとしか映らなかった。



・・・あの子も、そうだったのだろうか。


今も生きていたとしたら18歳になる。

幼い頃から快活で多芸に秀で、ユカラを歌っても、エムシの技を舞っても、群族の誰よりも抜きん出ていた。

ただ一度の過ち、あれほど言って聞かせていたのに、今なお正体の知れない魔族にたぶらかされて出奔し、やっと助け出した時には既に人の姿を保てず、母親の顔もわからなくなっていた。

一体どこから魔族が侵入し、どんな甘言を弄してあの子を連れ去ったのか、ついに判らなかった。


今、視線の先で脳天気にも魔族との会話に没入しているこのフレシャモのように、あの子も、かけがえのないその身を、ためらいもなく魔獣の前に差し出したのだろうか。

そして、、


それまで、なめし革に通じる冷厳に沈着していた女の表情に、はじめて苦悩の影が差し、その痛みの中で女は考えずにはいられなかった。

そして、その十全には足りない人生の末、わずか数瞬の仮初めにせよ、深い歓喜と充足に満たされて果てたのだろうかと。



わずかな感傷の後に、女の表情は子を想う母から、群族を率いる長のそれに戻った。

この、腹立たしいまでに愚かな小娘の運命はどうあれ、彼女の恋人のほうは注意を払う必要がある。

異界を多く知る女からしても、とりわけ危険で、予測のつかない異能の人狼ヴルダラクを捕らえた時のことを女は思い起こしていた。

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