第371話 冥府の黒炎

生あるものを残らず連れ去ろうとする冥府からの使者の群れのように、

ベラキュリアの軍団は動き回るサイのむくろには向かわず、もう一方の死を運ぶ獣、オオカミの群れをその包囲に取り込んでいった。


その連携には統率と、一体となった意思があり、個々の動きはオオカミよりも遥かに鈍く、人間と比べてもさほど危険なものではなかったというのに、

弓矢に戟、投網を駆使して複数の獲物を追い立てる手並は、容易にかわせるものではなかった。


雌オオカミのなかのもう一人、人間の「彼の女」は困惑しているのか、怯えきって声も出ないのか、沈黙を保っている。

だが今このとき、身体を司るオオカミの彼女にはそんな心境を味わう余裕もない。

駆けずり回り、包囲の隙をねらって突進し、この状況を突破するためだけに走り続けた。


後方のベラキュリアが彼女めがけて投げた三叉戟が飛んでくる。

その射線をかわして加速した雌オオカミの前に、投網を構えたベラキュリアが立ちはだかった。

研ぎ澄まされた静謐せいひつのまま、オオカミの知覚は爆発した。


広がりつつ迫ってくる投網をわずかに上回る軌跡で彼女は跳躍し、漁夫の喉元に食らいついた。

そのまま空中で体をひねると、ベラキュリアの華奢な頸は簡単に頚椎が砕け、大地に仰向けに倒れた時にはすでに事切れていた。

その死骸を踏み越えたオオカミの前に、広大なツンドラの視界が開ける。


一直線に走り出した雌オオカミの脚が止まった。

地リスが身を隠す程度の丈しかない草原の大地から、それは冥府の黒炎が湧き上がるように現れ、天を衝く巨体となって彼女の前に聳え立つ。

彼女の中の異質、直前にベラキュリアの首を捻じ折った時ににすら沈黙を保っていた「彼の女」が声を上げ、

次の瞬間、雌オオカミの意識は途絶えた。



後になって思い返してもアマリリスは、その時オオカミの知覚を通して見たはずのものを、うまく思い描くことが出来ない。

頭脳の構造が違うので、もともとオオカミのときの出来事は朦朧とした意識での記憶のようなところがあったが、

そういう曖昧さとも違い、目にしながら正しく見えていない幻影――、

その身を覆うのは毛皮だったのか、翼だったか、

振るうのは腕か、あるいは触手だったのか。

どんな顔をしていたのか、そもそも顔があっただろうか。

ただはっきりと見たのは、黄金色に燃える双眸 ―――――


しかし、オオカミの毛皮をかなぐり捨てて駆け寄ったアマリリスの前にいたのは、人間の倍以上の巨体のほかは、似ても似つかない現実の怪物だった。


白い外骨格の鎧が全身を覆い、背中や肩からは、骨が異常に変形したような刺突が不規則に飛び出している。

腕が2対、右腕は肩から2本が生え、左腕は肘から枝分かれしている。

脚は5本、左右に2対、右の前脚は膝から枝分かれしている。

頭部は異様に長く、胸まで垂れ下がった吻の先に、でたらめに並べたような歯や牙が覗いている。

見開いたまま瞼を失った小さな目は、おそらく何も見ていない、少なくとも正常な精神は持っていないことが明らかだった。


全体に均整が崩れた巨大な骸骨、体温や赤い血液の存在を感じる生き物とはかけ離れた姿を別にしても、

アマリリスにはそれがおぞましく醜悪な、死のにおいが凝集した生物に映った。

嫌悪に立ちすくむアマリリスを、怪物が抱え込むようにして、ゆっくりと手を伸ばしてくる―――


空間が潰れるような衝撃があって、怪物の巨体がアマリリスの視界から消え、かわりに赤銅色の洪水に埋め尽くされた。

横から突進してきた古代サイが怪物を弾き飛したのである。

人間の倍以上の巨体とはいえ、巨獣との対比では、猛牛と人間ほどの差がある。

外骨格の鎧ごと、サイの角は怪物の胴を紙のように貫き、恐るべき重量によって押し潰した。

ボロ屑のようになった怪物の体は、サイが頭を大きく振るうと2つにちぎれてツンドラの野に投げ出された。



「ジェーブシカ!」


マフタルが叫んでいる。


「早く! 次のが来る」


広大な野のあちこちから、腕が7本だったり、頭が2つの怪物が現れ、こちらに向かってくる。

サイのうなじから半身を乗り出したマフタルがしきりに手招きしている。


「早く!」


アマリリスは夢中でその手を取り、サイの体内に引き入れられた。

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