第362話 母《ユク》とトヌペカ#1
沈黙した砦の方角から、尾根を駆け上がってくる
谷を隔てたなだらかな山塊と、この峠とを結ぶ鞍部の尾根に建つ、3つの堡塁とそれらを結ぶ擁壁からなる砦は、山に根を張った固着生物のように見えた。
その時点では静穏に見えた砦を、
トヌペカには峠にとどまるように命じ、テイネを連れて砦へと続く谷に駆け下っていった。
その姿が地形の起伏に隠れて見分けられなくなった頃から、砦の様子が急変した。
色々な物のぶつかり合う音、多数の人間の声のような音が、山に反響して峠にも聞こえてきた。
ユキヒツジの姿になって耳を澄ますと、武器の打ち合う軽い音、壁か何かに重い物を叩きつける音、
甲高い叫びに悲鳴、それに時折まじる、獣の咆哮のような声が聞き分けられた。
再び人間の姿に戻ると、いつの間にか砦には、擁壁や堡塁の上にまで
大きな体に何本もの腕を生やした
歩兵が数人一組で一人を追い詰め、手にした薙刀で切り伏せる。
ほんの数分で、動いている
険しい尾根の登りをものともせず駆け上がってくる、それでも水を掻くようにもどかしい
それでもトヌペカは一応、
{テイネにいちゃんは?}
変身の形代である、幅広の帯状のユキヒツジの毛皮をいつもどおりの悠々とした手付きで臀に巻き付け、前に結んだ。
{早く逃げようよ、あいつら追ってくるよ。}
トヌペカは居ても立ってもいられず、自分の腰皮を引きちぎるように解き、早くも胸に押し当てながら訴えた。
――群族が庇護獣を引き出すには、人によっては癖や作法があり、
胸に抱いた毛皮に隠れて、トヌペカの手話はほとんど意味をなさなかったが、それを見るまでもなく、彼女が言わんとすることは
{大丈夫よ。
あいつらがここまで登ってくるには相当時間がかかるから。
あちらの出方も見ておかないと。}
{んもぅ、そんなのどうでもいいしょ、
こてんぱんのボロ負けで試合終了だよ。}
{占領する気はないみたいね。。
このまま移動して次の砦を落とす気かしら。}
ここから尾根伝いに5キロほど西に、
目の前の砦よりも一回り規模が大きいが、現時点の
ヴァルキュリアの防衛陣地の殆どは、地下通路で結ばれている。
現時点の雇用主であり、保護を受ける立場である
第一に
さらに
押し寄せる破滅を知ったところで、ヴァルキュリアは陣地を放棄して退却するような発想は持ち合わせていない。
玉砕のための玉砕、敵にはいかほどの損害も与えられない犬死にでも、それによって敵を引き寄せてその時間を費やし、
中央城砦から僅かな間でも遠ざけておくことが、現在の西の砦に残る兵士に期待されることであり、彼女たち自身の意思でもあるのだろう。
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