第362話 母《ユク》とトヌペカ#1

沈黙した砦の方角から、尾根を駆け上がってくるユクの姿を見て、トヌペカはほっと胸を撫で下ろした。


白拍子ウパシクル城砦群東端の防衛線にある砦の戦況把握を要請され、トヌペカとユク、トヌペカの又従兄弟のテイネの3頭のユキヒツジが、この峠に立ったのが45分前。

谷を隔てたなだらかな山塊と、この峠とを結ぶ鞍部の尾根に建つ、3つの堡塁とそれらを結ぶ擁壁からなる砦は、山に根を張った固着生物のように見えた。


その時点では静穏に見えた砦を、ユクは時間をかけて観察した後、

トヌペカには峠にとどまるように命じ、テイネを連れて砦へと続く谷に駆け下っていった。


その姿が地形の起伏に隠れて見分けられなくなった頃から、砦の様子が急変した。

色々な物のぶつかり合う音、多数の人間の声のような音が、山に反響して峠にも聞こえてきた。


ユキヒツジの姿になって耳を澄ますと、武器の打ち合う軽い音、壁か何かに重い物を叩きつける音、

甲高い叫びに悲鳴、それに時折まじる、獣の咆哮のような声が聞き分けられた。


再び人間の姿に戻ると、いつの間にか砦には、擁壁や堡塁の上にまで黒葛連シパシクルが群がっていた。

大きな体に何本もの腕を生やした羅刹パヨカスンテ白拍子ウパシクルを引き裂き、叩き潰す。

歩兵が数人一組で一人を追い詰め、手にした薙刀で切り伏せる。

ほんの数分で、動いている白拍子ウパシクルの姿はなくなり、砦は静まり返ってしまった。



険しい尾根の登りをものともせず駆け上がってくる、それでも水を掻くようにもどかしいユクの走りを、トヌペカはじりじりしながら見守っていた。

ユクと同行したテイネの姿が見えないのは、暗い予感、というよりも確信しかなかったが、ユクが戻ってくるなら、従兄弟の5人や6人は喜んでくれてやっていいと思った。


それでもトヌペカは一応、ユクに訪ねた。


{テイネにいちゃんは?}


ユクは強い意思を感じさせる眉をわずかに顰めて首を振った。

変身の形代である、幅広の帯状のユキヒツジの毛皮をいつもどおりの悠々とした手付きで臀に巻き付け、前に結んだ。


{早く逃げようよ、あいつら追ってくるよ。}


トヌペカは居ても立ってもいられず、自分の腰皮を引きちぎるように解き、早くも胸に押し当てながら訴えた。

――群族が庇護獣を引き出すには、人によっては癖や作法があり、

ユクはこれといった予備動作もなく、形代を腰に巻いた状態からユキヒツジの姿を得るが、トヌペカの場合は、形代をしっかりと胸に抱き、庇護獣の霊を思う、というのが変身の手順だった。


胸に抱いた毛皮に隠れて、トヌペカの手話はほとんど意味をなさなかったが、それを見るまでもなく、彼女が言わんとすることはユクには明らかだった。


{大丈夫よ。

あいつらがここまで登ってくるには相当時間がかかるから。

あちらの出方も見ておかないと。}


{んもぅ、そんなのどうでもいいしょ、

こてんぱんのボロ負けで試合終了だよ。}


{占領する気はないみたいね。。

このまま移動して次の砦を落とす気かしら。}


黒葛連シパシクルの動きが慌ただしくなっていた。

ここから尾根伝いに5キロほど西に、白拍子ウパシクルの砦がある。

目の前の砦よりも一回り規模が大きいが、現時点の白拍子ウパシクル黒葛連シパシクルの兵力差からいって、攻略はたやすいはずだ。


ヴァルキュリアの防衛陣地の殆どは、地下通路で結ばれている。

黒葛連シパシクルがそれを知らない筈はないから、地下から西の砦に進み、奇襲をかけるつもりかもしれない。


現時点の雇用主であり、保護を受ける立場である白拍子ウパシクルとの関係を鑑みれば、西の砦に知らせに行ってやるべきかとも思えたが、女はすぐにその考えを取り下げた。


第一に白拍子ウパシクルからの要請にはその善意は含まれておらず、

さらに白拍子ウパシクルの行動原理を考慮すれば、その虚しさも容易に想像がつく。

押し寄せる破滅を知ったところで、ヴァルキュリアは陣地を放棄して退却するような発想は持ち合わせていない。


玉砕のための玉砕、敵にはいかほどの損害も与えられない犬死にでも、それによって敵を引き寄せてその時間を費やし、

中央城砦から僅かな間でも遠ざけておくことが、現在の西の砦に残る兵士に期待されることであり、彼女たち自身の意思でもあるのだろう。

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