第350話 無明の彗星

バハールシタが古代サイをちゃんとを眠らせているのを確認して、マフタルは彼の定位置である、巨獣のうなじから滑り出てきた。

四肢を折って臥せていてもなお彼の身長を上回る肩によじ登り、あぐらをかいて座った。


もうすぐ、嵐が来る。

サイの体に住み着く小動物はみなねぐらに戻り、今日はもう動くつもりがないようだ。

上空に鳥の姿はなく、嵐の前触れの風が草木を吹き荒らすツンドラの野も、

一度スゲの草むらからライチョウが飛び立って、すぐに近くのハイマツの茂みに消えていったほかは、動くものの姿はない。


中に入れば辟易するほどにぎやかな「共同住宅」の屋根の上にあって、マフタルは一人その光景を眺めていた。

もしそれを見た人間がいれば、いわゆる「そういう年齢」の少年が、年齢特有の物思いにふけっている姿として映ったかもしれない。



人間の言語基体を、摂食によらずに自己組織化できる能力以外、マフタルに魔族としてなにか特別な事情があったわけではないが、

自ら名を名乗り、積極的に人間と交流を持とうとするなど、いかにも”魔族らしくない”ところは確かにあった。


魔族の群体、構成体それぞれは別個の利害がありつつ、必然的に、文字通り”手を取り合って”一つの身体を運営しなければならない集団の、

司令塔、利害調停者、そして大家でもあるマフタルにとって、調和と統合はそれ自体に価値があった。

加えて、草食の獣として生きてきたマフタルには、結果的に、他の生き物を殺して食べるという発想がなかった。


しかしこの時、この荒野に忽然と現れて去っていったオオカミの娘を思い描くマフタルにあったのは、

餓えの感覚によく似た鈍い渇望だった。


身にまとったオオカミの毛皮によく合う黒銀の長い髪、ふっくらとみずみずしい唇、

すらりと伸びた、それでいて柔らかな質感の手足や、本人は毛皮で隠しているつもりで油断も多く、垣間見えるいろいろ。

そして、古代サイの巨体をまじまじと見て回った後に、彼に視線を向けて寄こしたみどりの瞳。

それを思い出すと、まるでこの無明の荒野に、翡翠色の星が瞬くように感じた。


”またね!”


去り際にそう言って、風のように去っていった彼女はきっと、

今頃はあの欲の深そうな魔族(マフタルにはそう映った)と、この荒れ野の先で、あんなことやこんなことを、、



空腹感、しかもしばらく食物にありつけない見通しとセットの感覚に似たものを感じて、

マフタルは深いため息をついた。


やがて吹きつける風に雨粒がまじりはじめた野を、こちらに向かって駆けてくる、まさにその彼女の(但しオオカミの身体の)姿を認めて、マフタルは目をむいた。

さらにアマリリスが人間に戻ると同時に、オオカミの毛皮をかなぐり捨てて彼の足元に駆け寄ったときには、

魔族らしくもないことに、危うくサイの背の反対側に転げ落ちるところだった。


「アマロック見なかった!?」


「ははっ、はい!? あいつを、、?

見てないよ、一緒に行ったんじゃなかったの?」


「やっぱり、戻ってないんだ。。。」


素肌に打ちつける雨粒にも構わず、雨に霞む荒れ野の方を向いた瞳は、もうマフタルのことを見てもいなかった。


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