第339話 トラバース#2
まず感じたのは、息が詰まるほどの風の強さと冷たさ。
人間の知覚でもはっきりと感じるほど、その空気はひどく乾燥していた。
眼下には遮るもののない陽を浴びてまばゆく輝く雲と、その狭間からのぞく下界の地は、藍色の影に霞んでいた。
下から見上げれば、頭上にのしかかる重い曇天に見えるのだろう。
そして白銀の雲の嶺峰の先には、この大半島の西の海岸が、、
そう期待して目を凝らしたアマリリスは、そう遠くもない距離にそびえる別の山脈を発見して困惑した。
トワトワトの脊梁をなす高山帯は、一続きの山体ではなく、幾つかの不連続な山脈の列によって構成されていたのである。
彼女の故郷、カラカシスを明瞭に北と南に分けていた大カラカシス山脈とは、それもまた異なることだった。
山脈と山脈の間の谷は、四方を山に囲まれたささやかな渓谷程度のこともあれば、
広々とした盆地が広がり、更にそれが山脈の端を迂回して別の盆地へと接続し、入り組んだ盆地の回廊を形成している所もあった。
盆地とはいえ標高は1,000メートルを超える。
樹木は灌木がほとんどで、あとは見渡す限りの草の海が広がっている。
そこが、海岸地方からはるばる山を越えてやって来たアカシカたちの目的地だった。
とはいえ、それは彼らのワタリの旅がここで終着点に到着したということではない。
海の旅に例えるなら、むしろこれまでは外海に出るまでの沿岸航行のようなもので、
ここからが外洋を巡る本物の航海だと言えた。
同じように方々から集まった群が合流したり分かれたりしながら、アカシカは盆地の回廊をなぞるように回遊し、
高地のいっそう短い夏に芽吹き、生い茂った青草を貪っていった。
その進みは速く、いっときも留まることなく移動し続けていた。
それは彼らを常に、食い尽くされていない餌場に導く意味もあったが、
より直接的には、彼らを狙って集まるオオカミや魔族といった天敵を引き離しておくためだった。
オシヨロフのオオカミたちが追ってきたアカシカの群もまた、他の方面から山を登ってきた群や、既に盆地帯に入り込んでいた群と合流したり、離れたりしながら、回遊を続けていた。
オオカミが獲物を追う手がかりとなる痕跡、足跡や草の噛み跡、寝転んだ跡や、
仲間同士揉めたり戯れたりした跡は、群によって、更にアカシカ一頭一頭で違う。
多くの群が通り過ぎ横切った中で、その痕跡の道は、細まり、所どころかすれつつも、
明瞭な一本の線として異界の奥へ奥へと続いていた。
他の群と合流したからといって、2つの群が混合して1つの群になるわけではないのだ。
オシヨロフのオオカミたちは、食料となる獲物は主に他の群から調達しつつも、
その軌跡は見失うことのないように進んでいた。
それが彼らの命綱であり、故郷の森まで食料同伴で ――よって、アカシカの空白地帯に取り残されて途方に暮れたり、
先を行き過ぎてアカシカがまだ戻ってきていないオシヨロフに帰還することもなく、ワタリの旅を続ける工夫だったのである。
もっとも、オオカミが論理的に思考してこのような行動計画を立てるわけではない。
それは高地の風の冷たさと乾き、空と雲と植物相が織りなす色覚、その他さまざまな知覚に晒される中で、
彼らのアカシカとの距離が開いていくのを感じた時に、彼らを追おうとする衝動の形で現れてきた。
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