第338話 トラバース#1

オシヨロフを出発しておよそ1月、広大なトワトワト奥地のどこかに、アマリリスはいた。


これまでに見かけた人間の痕跡は、北の民が通った痕跡が一度だけ、それも、3ヶ月以上は前のものだ。


オオカミの姿でいるときの知覚によれば、オシヨロフはだいたい南東の方角のようだが、正確な距離は分からない。

ただ、かなり遠い、独りでは帰りつけないくらいに遠い、としか。

――ちなみになぜ方角が分かるのかも、人間の身体に戻ると説明できない。

強いて言えば、空がそう指している、としか言いようがなかった。



オシヨロフからまず北に向かったオオカミたちは、2日目には山を登り始めた。

白い峰が連なる急峻な山脈で、奥地に向かっているものと思っていたが、一面のハイマツに覆われた峠を過ぎるとすぐに下りとなり、1日ほどで海に出てしまった。


もうトワトワトの西岸に着いたのかと驚いたが、そんなわけはない。

彼らが越えたのは、オシヨロフの北で、東の海に向かって半島状に伸びる連山の根元のところだった。


連山の北側は、南側、入り組んだ地形のオシヨロフ周辺とはずいぶん雰囲気が違い、

海流が運んだ砂礫が堆積してできた、どこまでも真っ直ぐな海岸線と、平坦な大地が広がっていた。

見渡す限りの草地の所々に島のような森、海岸線と平行に等間隔で並ぶ長い帯状の沼。


アマリリスは初めて目にする景色で、同じトワトワトの海辺がこうも違うことに驚かされた。

オオカミたちはこの大湿原で、オシヨロフを出てから一頭目のアカシカをとらえた。


数日かかってそれを平らげてから、移動を再開した。

湿原の中を流れる、一見湖沼と区別がつかないほど緩やかな流れの川を渡ってしばらくすると、周囲に丘陵が目立つようになった。


思えばそれが、彼らが高地に向けて内陸に足を踏み入れた始まりだった。

大地は次第に乾燥し、霧雨と頭上すれすれの雲は去って、常に薄曇りがかった冴えない青空が広がるようになっていった。


深い森が続き、大地の波のような山々が次々に現れては背後に消えていく。

その中には煙を吹き上げているものもあり、谷間では熱水の川が湯気と硫黄の匂いをあげて流れていた。


無数に現れる湖沼は、水たまり程度のささやかなものから、岸辺には波が打ち寄せる、海かと思うような広大な火口湖もあった。


晴れた穏やかな湖面には、ダケカンバの木立が美しい影を映し、みどりのじゅうたんを敷いた丘陵の麓では、キンポウゲの橙にサクラソウの紫、チングルマの白といった花々が咲き競っている。


かと思うと突然地面がなくなって、大きくえぐれた地の底から硫黄の蒸気を吹き上げる谷には草一本生えず、見るからに毒を帯びた色の池が湧き立っている。

荒れ果てた尾根を、体が引きちぎられそうな風雨に叩きのめされながら進んだ。


やがて行く手には上り坂が顕著に増え、目前の嶺を登りきって峠に出たと思ったら、その奥に控える次の山の麓だった、ということが続くようになった。

あるところから、木々は波が引くように減っていって、

依然として可憐に咲き誇る花々と、同じくらい色とりどりの蘚苔類のマットが勢力を増してゆき、

その果てにたどり着いたのは、剥き出しの岩盤と、何年も溶けずに積もり続けて岩のようになった氷雪の半ばする世界だった。


そこが分水嶺であり、アマリリスはとうとう”あの山の向こう側”に到達したのだった。

アマロックをはじめオオカミたちは足を緩める気配もなく、置いていかれないか気がかりで、アマリリスは急いで人間の姿に戻った。

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