第335話 新旧の言語

キリエラ人の歴史でも珍しい、草食動物への変身のほかに、

トヌペカの群族を特徴づけるもう一つの習俗が、その独特な会話の方法だった。


ずっと昔の自分の先祖も含め、人間の殆どの支族は、声を使って意思を伝え合うのだということは、トヌペカも知っている。

たまに交流のある北の民も、ガチャガチャ騒がしい音をお互いにぶつけ合って、聞いていて耳が痛くなった。


だが、北の民の言葉はもちろん、自分たちの言語も、彼女はほとんど話せないし、聞いてもあまり理解できない。

トヌペカだけでなく若い者はみな同じ、年長者も、ブンカのケイショウとか言って、子供に教えようとする時だけ話せるふりをするが、似たようなものだ。


数世代にわたって、魔族や猛獣の脅威にさらされ、息を潜めるようにして暮らしてきた彼らは、周囲に拡散する音声の代わりに、

一種の手話による会話を意思疎通の主な手段として用いるようになった。


もともとは狩猟民時代の、猟の仲間同士の合図が発展したもので、はじめのうちは身振り手振りの延長に過ぎなかったが、世代が入れ替わる頃から急速に語彙や表現が増え、

ごく短い期間のうちに、新しい言語の体系が確立されていった。


手話による会話にはもうひとつ、ユキヒツジの姿の仲間にも情報を送りやすいという利点もあった。


無論、ユキヒツジの姿でいるときは、音声であれ手話であれ、人間の言語を理解することはできない。

これは脳の物理的な構造に起因することで、人間言語を理解するための器官は人間の脳にしか存在しないためだ。


しかし言語として理解しなくても、例えば訓練された犬があるじの指示に従うように、

彼らなりのやり方で、他者から発せられた情報を、何らかの行動に結びつけることは可能だ。


まさに家畜を訓練する技術の応用で、獣の姿の一族に族長が指示を送り統率することは、

キリエラ人の間で古来広く行われており、その巧拙は一族の繁栄の成否に大きく影響することでもあった。

彼らが群族ごとにひとつの庇護獣、変身する先の動物を決めているのも、ひとつにはここに理由がある。


その際の意思伝達の手段は、音声言語を用いる集団では、自然な流れとして音声による符号が用いられた。

ところがユキヒツジは、従来彼らが庇護獣としていた種とは異なり、人間の声を聞き分けることが苦手だった。

ユキヒツジの聴覚は、人間の声が主に使用する音の帯域には未発達で、何を言っても、こもったような不鮮明な唸りにしか聞こえないのだ。


これは特に驚くようなことでもなく、ユキヒツジは彼らの生存に影響するような音、忍び寄る肉食獣の足音や、雪崩の兆候、上空から飛来する猛禽の羽音といったものには非常に鋭敏だが、

人間の声の帯域には――彼らを仕留めようとひそひそ話をする狩人の声を含めて、少なくともトワトワトには、

注意を要するような音が存在しなかったというだけのことだ。


一方で手話の受信に使用する視覚には、そのような制限がなく、かつ、ユキヒツジの広い視野のおかげで、

大抵はさきほどのトヌペカの母が行ったような音声による注意喚起もなしに仲間に指示を送ることができた。


このような経緯で、古い音声言語は急速に新しい言語に置き換えられてゆき、

古い言語は、今では命名式などの儀礼的な場で唱えられるのみとなった。

その発音も正しいのか、つまり父祖の言葉とどれくらい似ているのか、誰にもわからない。



ユキヒツジを一族の庇護獣に選び、新たな言語を編み出した日から、彼らはキリエラから派生した、新しい民族になったと言えた。

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