第332話 ワタリガラスの旅立ち
黒っぽい砂地に一輪の
ここ数日の日差しに乾いた砂が風に巻き上げられてうっすらと煙っていた。
オシヨロフ半島の北に伸びる砂浜。
あたりには、目当ての流木がそこかしこに転がり、場所によっては波の加減でうず高く積み上がっている。
だが急いで拾う必要はどこにもない。
行きに拾い集めて重くなった荷車を、来た道ぶんまるまる押して戻るのもバカバカしいし、
手頃な大きさであっても、砂に埋もれているような流木は、湿っていたり砂だらけで薪にするには都合が悪いのだ。
行きは空のまま行って、戻りながら選別して拾ってくるのが正解だった。
娯楽も、変化や刺激も乏しく、退屈しがちなこの地の生活を、彼はこうして生活そのものを工夫することで、それなりに楽しんで過ごしていた。
小魚を捕る投網を、ファーベルの見よう見まねで習得し、夕食の調達に貢献出来るまでになっていた。
この技術の継承は、遡ればクリプトメリアからファーベルへ、場所も定かでない遠い極北の先住民からクリプトメリアへ、
という系譜だったが、その三代の中では今やヘリアンサスが一番の上達を遂げていた。
カヌーの操縦を身につけたことで、歩けばそれなりの難路となる兜岩との往復も、安全で快適なものになり、ファーベルにずいぶん感謝された。
もうずっとこの生活が続けばいい、とまでは思わないものの、
逆に、いつまで続くのかと考えることもない程度には満足を感じ、
それ以外のことは特に何も考えることなく暮らしているつもりだった。
さしあたり今は流木、薪拾いだ。
ヘリアンサスがいつも折り返しの目印にしている、小さな岬の麓についた。
回れ右して、こんどは目ぼしい流木を見繕いつつ、オシヨロフめざして戻る。
それほど厳密な選別は不要だが、乾いていて、なるべく樹皮が残っておらず、
すぐに燃え尽きたりしない、かといっていちいち割ったりする必要がない程よい太さ、
ヘリアンサスが密かに基準にしているアマリリスの太腿くらいのものが理想だ。
邪魔な枝は手持ちの鉈で払うぐらいにして、多少、というかたいてい荷台から豪快にはみ出すが、そのまま載せてしまう。
足場の悪い砂浜で折ったり切ったりするより、臨海実験所の大斧でやったほうが手っ取り早いのだ。
むしろ、積み方が悪いと、オシヨロフの尾根を越えるときに荷崩れするのでバランスに気をつける必要があった。
途中で嵐でも吹かない限り(冗談でなく、これまで二、三度そんなことがあって中止を余儀なくされた)薪集めはしごく順調に完了する。
それも、彼がこの仕事を好きな理由の一つだった。
自分の仕事ぶりに不満があるとすれば、たいてい早々に集めすぎて、帰り道の大半を満載状態の重い荷車を押して進む破目になること。
もう少し抑えて、オシヨロフの麓につく頃にピッタリ満載になるのが理想だが、
彼の性格的に、せっかちと言うよりは、
収集量不足になる懸念を抱えつつペース配分に気を配るという難度の高い技をやるより、
重みで砂にめり込む車輪に苦戦するほうが与しやすく、闘いがいのある敵だったということだ。
『月明かりの下、明日を夢みてオレは眠るゼ、
太陽が昇ったら、新しい朝が来たとオレは叫ぶゼィーーー♪♬』
誰も聞いていないのをいいことに、調子外れの大声を張り上げながら、
景気よく丸太を蹴り上げ、小枝を叩き折り、荷台に放り上げて一丁あがり、
つぎの流木を拾うためにかがみ込んで、体を起こしたら、
頬が触れそうな至近距離から彼の顔をのぞき込む白い顔、金色の瞳――
――流木が手の中から滑り落ちてガランと音を立て、ヘリアンサスは我に返った。
元通りの、だだっ広い砂浜。
“元通り?”
右手に広がる一面の林の奥、小高い丘になった場所の上を、7,8羽の大鴉が舞っている。
目についたのはそれだけだった。
どことない薄気味悪さが残るが、実際何もいない。
ヘリアンサスは無言で涙を拭った。
涙?
オレ、なんで泣いてるんだ?
不審がるヘリアンサスの背後数歩のところから、彼女はその様子をじっと見つめていた。
この女魔族にしては珍しく衣服を、カササギの羽を蜘蛛の糸でつなぎ合わせた長い衣と、揃いの帽子、もしくは髪飾りを身につけ、
したがって彼女のなわばりである北方の森から、人の姿でやってきたということになる。
ヘリアンサスはやがて何事もなかったかのように(実際、彼にとっては何事も起こっていないので)、
薪拾いを再開し、遠ざかっていった。
ヘリアンサスが後ろを見なかったのは幸運だった。
いかに知覚の操作に長けた魔族といえ、同じ相手に立て続けに記憶操作を行えば、人格に損傷を与えかねない懸念もあるのだ。
オシヨロフの取り付きの急坂を、顔を紅潮させて荷車を押し上げ、なだらかな尾根に出てからはじめて、
ヘリアンサスは眼下の浜を振り返った。
そこには、当然この距離から見えるわけもない、かすかな足跡を残して、誰の姿もなかった。
森の大鴉の群れはしばらく、ケシ粒のようになって見えていたが、やがて森の奥、遥かに広がる高山の方角へと飛び去っていった。
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