第328話 溶水の感覚

視界の暗さに、自分が目を閉じているのか思った。

しかし顔を上げると、暗い水面に映る灯りの、長い光の道と、その先の臨海実験所が目に入ってきた。


毛皮を羽織って起き上がり、闇空に伸びるトネリコの梢を見上げた。

たぶん、、夜中の11時ぐらいだろうか。

みんなさすがにもう寝たかな。


前にファーベルに貰った、鯨の膀胱の袋に入れて、大木のうろに隠しておいた服を取り出し、

真夜中の大気の冷たさに身震いしながら身につけていった。


オオカミになって森に向かうために、裸で臨海実験所を出るわけにも、オオカミに変身した状態で母屋を横切って外に出るわけにもいかない。

そんなことしたら、ファーベルかヘリアンサスに激詰めされそうだ。

結局、こんなところでコソコソ服を脱いだり着たりすることになる。


アマロックとの遭遇確率の高い場所なのは少し気になっていた。

できれば、着替え中に出会うことは避けたいところだが、

広大な森のどこかを選ぶよりも、気心が知れて落ちつける場所なのと、

着替えている「途中」にアマロックが現れることは、多分なさそうな気がしていた。


チュニックに袖を通すとき、左肘が鈍く疼いた。

この間、ペチカの上にあがろうと階段をスリッパで登っていて、ネグリジェの裾を踏んで派手に転んでぶつけたのだ。

大したことはなかったが、ファーベルは随分心配して、いろいろ手当してくれた。

ヘリアンサスは真顔で同情し、かわいそうに、野生動物になったのに、そのどん臭さは変わらないんですね、なんて言う。

ムカつく、、、何か最近風当たり強くない?


不思議なことに、というか考えたらそういうものかもしれないが、

人間の時に負った傷は、オオカミの時は痛まない。

(逆のことも言えて、オオカミの時にどこか怪我しても、人間の体に傷は残らない。)

だからこうして変身を解くと、思い出したようにアザの痛みが戻ってきたりする。


めんどくさい。


ネグリジェでスリッパはいてずっこけたり、こんなところでコソコソ着替えたり、何やってんだか。


どうせもうすぐワタリに出ることは決まってるんだし、

いっそこのまま、臨海実験所なんか戻らずに、当分オオカミのままで過ごそうかな、なんて。



オオカミの毛皮をまとい、ひととき、2つの姿を結ぶ鍵となっているあの幻影を念じる。

心許ない寒さが消え、同時に、塩が水に溶けるみたいに、人間としての自分がすっと溶けてなくなってしまう。

それは、アマリリスにとって、胸がすくような爽快さを伴う、気楽な感覚だった。


一方で、毛皮を脱いで人間に戻れば、いかにも人間くさいもろもろの観念が押し寄せてくる。


出立が近づくにつれ、頭の中で大きくなってくるある考えも、その一つだった。

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