第315話 オーガニカル

「さてと」


クリプトメリアの声に、やおら現実に引き戻された。


「いよいよ外部注入元となる生体旋律の出番だ。

バーリシュナお嬢様、ご提供いただけるかな。」


アマリリスはずっと膝に乗せていたオオカミの毛皮を両腕に抱えて立ち上がった。


銀色に輝く表層の硬い毛並みと、その間に指を沈めると触れる、絹のような手触りの柔毛。

ピンと立った三角の耳に、額から鼻面にかけての優美な曲線。

それらの、とうにほろびたこの毛皮の本来の持ち主の面影は、この毛皮に慣れ親しむうち、アマリリスにとって馴染み深いものになってきていて、

これからそれが自分の身体の一部になるのだという考えも、あながち想像できないでもない気がしてきていた。


アマリリスが名残惜しげに渡した毛皮を、クリプトメリアは無造作に広げ、大きなタライほどもある容器に満たされた、ロゼのワインぐらいの色合いの液体にゆっくりと沈めていった。


「それがエリクサ?」


「いやいや、エリクサの合成はまだまだ、一晩はかかる。

これはサンプル中の生体旋律の活性を高める薬品で、エリクサとは別物だよ。

外挿生体旋律発現には必須というわけではないが、エリクサのみでは発現の成功率が六割程度に留まるのに対し、これを用いればほぼ100%に高めることができる。

エリクサ研究の過程で生み出された、オペルクルカリア酸エキザカムという物質だ。」


おや。

ということは、禁忌タブーだの何だのと言いながら、マギステル楽派でもしっかりエリクサを研究してるんじゃないの。


「もちろん、人体に用いる目的ではなく、多重表出型発現のプロセスの解明、と言う文脈でだがね。

非常に興味深い現象なのは確かだ。

かく言う私も、エリクサの存在を知って以来、自分が別の身体を得て活動するというのはどんな気分だろうかと、幾度となく夢想はしたものだよ。」


「え~、じゃ博士も変身してみりゃいいじゃん。

せっかくエリクサ作るんだし、この際ご一緒にどぉ?」


ま、博士のサイズだとオオカミよりはヒグマかな?

と思ったものの、おちゃらけすぎな気がして口にするのは控えた。


それでもクリプトメリアは笑って、


「そうさのう。

考えんでもなかったが、それは私にとって遙か遠い夢想というか、

例えば南極点に立つ自分を思い描くようなものなのだよ。

仄かな憧憬には感じつつ、そこに到ろうとは考えつかない、そしてこの先もそこに到ることはないであろうと諦観する地の如く、な。


まぁ、その夢想の境地に、身近な冒険者が到ろうというわけだ。

是非、感想を聞かせてくれたまえ。」


「えー。どうしよっかな?」


「おいおい。

お姫様バーリシュナのムチャ振りに、老骨に鞭打ってお応えしとる爺やのお願いじゃないか。

それくらい聞き入れてくれてもバチは当たらんのじゃないかね。」


エリクサを合成している実験机の方に戻って、さも大儀そうに腰を下ろしたクリプトメリアが、両手を広げておどけて見せた。


「・・・そうね、」


アマリリスはクリプトメリアの側に歩いていって、彼の毛むくじゃらの頬にキスした。

そしてごま塩頭をぎゅっと抱きしめた。

目を白黒させているクリプトメリアに、囁くような、少し泣き出しそうな声で言った。


「本当にありがとう、博士。」


それは心からの言葉で、アマリリスにはそうせずにいられない気持ちだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る