第310話 キリエラ群島の禁忌

「だが、バーリシュナお嬢さん

この技術によって、あなたが人間以外の姿を手に入れることには、残念ながら賛成しかねる。」


クリプトメリアはゆっくりと本を閉じ、申し訳なさそうな笑顔で言った。

今度はアマリリスが当惑する番だった。


「何故って?


・・・まず、、一般通念として、

このテクノロジーを人間に適用することは、禁忌とされているんだ。


生体旋律を制御する技術自体とは無関係な、いわば倫理的な問題として、

人間が変身する能力を持つ場合、それを人間とするべきか、魔族とするべきか曖昧になる危険をはらんでいるのだよ。


人類の発祥から文明発展とともに、特に近代以降、魔族に代表される原始の世界は人間世界を害する脅威と見なされるようになった。

事実、今や人間にとって魔族は最も危険な有害生物のひとつだ。


だから魔族の駆除は奨励され、当然、魔族を殺しても罪には問われない。

だが、オオカミを一匹仕留めるのより話がややこしいのは、魔族が往々にして人の姿を持ち、言葉まで喋るということだ。

では、何をもって人間と魔族を区別すればいい?


現実問題として『魔族が』、人間と見分けがつかないということは稀だ。

アマロックのように人間の真似が上手い魔族というのはいるが、あれだって取っ捕まえて検分すれば、すぐに化けの皮が剥れるだろう。

むしろ困るのは、人間を魔族だと偽って、例えば入植者が辺境の先住民を、魔族討伐の名目で排除するようなことが起こりかねないということなんだ。


そこで、たとえばわが国の法では、魔族を『変身の能力を持つもの』と定義している。

実際には変身しない魔族というのも数多くいるわけで、明らかに不完全な定義だが、それはあまり問題にならない。

先に述べたとおり、変身能力の有無を確認するまでもなく、魔族は明らかに魔族であり、人間は人間であるわけで、

ただ、人間と魔族を区分する観念的な境界があればそれで良いのだ。


人間を護る抑止力としてこの一文は十分に機能し、魔族と人間の区別を巡ってそれ以上の議論が起こることもなかった。

キリエラ群島から、エリクサの製法が伝わるまでは。」


「キリエラ群島、、?」


「ここへ来る途中、君たちも通ったはずだ。

サテュロス海の霧と海流の彼方、トワトワトから、遙か南方のアキツ国の間に連なる、広大な群島だ。


かなり昔、先史と言われる時代から人間が定住していた土地なのだが、今なお群島を統治する国家は存在しない。

そこに住む人々は街や道路を作らず、狩猟採集を主な生活の糧として暮らしているという。

そしてラフレシアでは考えられないことだが、彼らは魔族を神々や精霊の化身として崇め、共存しているのだ。


その交流の中から生まれたと言われているが。

オオカミや海獣の姿で猟をする、特殊な文化を持っている。

そのために用いられるのが、秘薬エリクサだ。


生体旋律の発現を人工的に制御する技術は、以前から理論的には語られていたものの、それがこれほど完成された形で、

しかも、現代科学の唯一の高峰と信じられていたマギステル楽派とは全く独立の原始民族の中に”発見”されたことは、当時大きな驚きをもって迎えられた。


以来1世紀が経過したが、マギステルの科学は今なお、エリクサの薬理を完全には解明できていない。

加えて、キリエラ人の異質な文化、つまり我々にとっては敵でしかない魔族を敬い、調和を形成していることへの戸惑い、ないしは我々の側の文化に対する後ろめたさがあり、

エリクサ自体が、先に述べたとおり我が文明の正義を支える法の前提を、部分的にせよ危うくする。

実際のところ、それが本音なのだろう。

エリクサは、キリエラの文化は、我々の文明に対する問題提起であり、ゆえに異端なのだ。


人が個人の意志と責任で、エリクサを用いて変身することに他人がとやかく言う道理はないし、変身能力を得た人間が、魔族として殺された、という話もこれまでない。

エリクサによって変身能力を得たら、果たしてそれは人なのか魔族なのかという議論自体が、いかにも我々の文明らしい話で、

言うならばある天体が惑星なのか彗星なのかといった類の、恣意的な問題だ。

人間が何と名付けるか、そんなことには関係なく、星は夜空を巡っとる。


同様に、バーリシュナ、エリクサを用いてオオカミの姿を手に入れたからといって、あなたがあなたであることの本質に何か変調をもたらすわけではない。」

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