第302話 この感情は――

幻力マーヤーの森の奥からにわかに、重い風がどっと吹きつけて、黒々と繁るダケカンバの枝を揺らした。


”くっさ! 何この臭い!??”


思考を司るよりずっと深い領域の脳が反応して身構えたのと、ファーベルの悲鳴が響きわたるのがほぼ同時で、

次の瞬間にはアマリリスはファーベルに駆け寄っていた。


向かってくるものを正確に認識するよりも早く、立ち尽くすファーベルの肩に掛けたポーチから拳銃をもぎ取り、両手に構えながら撃鉄を起こし、銃口の向きも確かめないまま引き金を引いた。


耳を突ん裂く銃声が響きわたり、怪物の右肩から鮮血が吹き上がる。

世界がふたたび回り始めた。


手の中で跳びはねる銃把を押さえつけ、怪物に向かって前進しながら撃鉄を起こす。

そのときアマリリスの心を、久しく忘れていたある感情が走り抜けた。


”何だっけ、これ”


こんな状況のさなか、アマリリスの頭は恐いくらい冷静で、まるで無関係な他人を観察するようにその感情を探っていた。

その間も彼女の体は着々と動作を続け、躊躇ためらいなく第2射、3射を放った。


”ハズレ。ちっ”


銃身の熱を感じながら、撃鉄を起こす。


”思い出した”


弾丸が怪物の頭をかすめ、鮮血が吹き出すのを見て思った。


”この感情は――『哀願』、それも許しを請う気持ち。

なぜ? この化け物に”


さらに続けざまに2発を放った後、荒々しい銃は、かしんと虚しい音を立てて沈黙した。

何度撃鉄を起こし引き金を引いても、もはや応答はなかった。


結局アマリリスが撃った弾の大半は目標を外れ、命中した2発も、相手に大きな打撃を与えたとは言えなかった。

苛立ちまぎれに投げつけた銃そのものも、あらぬ方向に飛んでいった。



嘔吐を催す悪臭が鼻につく。


アマリリスは歯噛みしながら、ようやくまじまじとその化け物を見た。


どす黒く血の気のない肌には、無数のミミズ腫れというか、皮下をムカデが這い回ったような醜い糜爛びらんが浮き出ている。

シギの嘴のような、細長く湾曲した爪は、両手の自由を著しく制限する上、見た目に脆そうで、引き裂くというより掻きむしるという雰囲気に見える。


頭頂部から後方に伸びた二つの突起が目立つ頭は、甲虫の殻のようにつるりと黒光りし、胸まで垂れ下がった顎から伸びる口吻の間から、

爪と同様に脆そうな、夥しい数の棘歯が、乱れた櫛の歯のように覗いている。


そして、目がない。

眼窩とおぼしき位置からは、中から大ムカデが這い出てきてそのまま固まったかのように、隆起した糜爛の筋が幾筋も、首まで伸びている。


それを見て、アマリリスは唐突に戦意を失った。


”あれ、ちょっと、、え?何で?”


自分の心の働きにアセるアマリリスに向かって、怪物は長い吻をかぱりと開き、咆哮した。

空間全体がビリビリと震え、怪物は長い爪の生えた腕を広げて走り出した。

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