第299話 けれどいざ目の前にして

ぎくりとして立ちすくむ二人をよそに、アマリリスは吸い寄せられるようにして、音のした方角へ歩いていった。


苦しげな呻きとも悲鳴ともつかないものが、断続的に大気を震わせていた。

涸れ沢の急斜面を上からのぞき込むと、そこに見たものは今のアマリリスにも意外な光景だった。


ヒグマとアカシカ。

立派な角を戴いた牡鹿は、頭も肩も無惨に噛み裂かれ、血まみれだった。

真っ黒な大羆は、牡鹿の後ろ脚に食らいつき、今にも引きずり倒そうと躍起になっていた。


痛ましく苛烈な場面には違いないが、アマリリスが面食らったのは、シカにヒグマというその組み合わせだった。


ヒグマは確かに肉食の猛獣で、アカシカを補食するのも何ら不思議はないのかもしれない。

しかし通常彼らの主食は、川を遡上する鱒であり、木の実や若芽であって、こうして直接、堂々とした大人の牡鹿を狩る姿というのは思いもよらなかった。


けれど、それが現実に起こっている。


ヘリアンサスが横に立って見ていた。

ファーベルは後ろで凍りついている気配。

ヒグマが動いて、頭が茂みの影になって見えなくなった。

ばりばりとものの裂ける音がして、ヒグマは荒い鼻息を鳴らしながら何かすすっている。

アカシカはもはや苦しげに悶えるだけだった。


アマリリスは踵を返して立ち去った。

入れ替わりにのぞきこもうとするファーベルを制して、ヘリアンサスもその後を追った。


後ろからついてくる二人の気配を耳で確かめながら、一方でアマリリスはまるでそれを振り切ろうとするかのように、ずんずん歩いていった。


ケガをした鹿をたまたまヒグマが見つけたとか、それだけのことなのかもしれない。

例の正体不明の魔族(?)と何か関係があるのか、なんて考えたところで分かるわけもない。

この森では何が起こるか分からない、起こった出来事に意味なんてない。

それでも、どうにも不吉な、間近に迫った破滅の知らせに思えてならなかった。



忘れていた恐怖がむくむくと頭をもたげてくる。

指を折り曲げて掌に触れると、べっとりと汗をかいていた。

その感触によって一層、恐ろしさが膨れ上がり、アマリリスは思わず目をつむった。

時折脳裏に、あるいは異界に重ね合わされた幻影に現れる魔獣が、このときもはっきりと感じられた。

とてつもなく大きく恐ろしく、邪悪で残忍で、けれどいくら凝視しても、その姿形は一向に見えてこない。


その獣にいずれ、あたしは引き裂かれて喰われるんだ。


その残酷な妄想は、しかし今この時乱れる心の苦しさからすれば、むしろ希望の情景にさえ思えた。


アマロックに会いたい。

会って、声を聞きたい。優しく髪を撫でてほしい。


けれどいざ目の前にして言葉を探せば、その思いを伝える言葉が何も見つからずに戸惑うあたしの心のように、

森は、そのどこかに確かにアマロックを隠しているはずのこの森は、正体不明の不吉な化け物まで用意して、あたしとアマロックの間に立ちはだかる。


そう、本当は分かっていた。

この気分のまま一人で森に来て、アマロックに会ったら、あたしはきっと自分の思いに耐えられない。

何をしでかすか分からない、化け物に出会って殺されるよりもっとヒドいことになる。


それが分かっていたから、ファーベルとヘリアンを連れてきたんだわ。。。

何て卑怯なの。

意気地なし、災厄級メンヘラ女。

あんたなんかさっさと魔物か化け物にでも喰われて、、、

ううん、に死んでりゃよかったのよ。


深い悲しみが胸を刺す。

その痛みに、アマリリスは涙ぐんだ。


目をつぶったまま歩いていたせいで、何かにけつまづいて立ち止まった。

振り返ると、ヘリアンサスと、ファーベルと目があった。

目に涙をためたアマリリスを、二人は憐れみとも同情ともつかない表情で見ていた。

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