第296話 薄明から薄暮のあいだ

空は白みはじめていた。


一般に、つまりこの惑星のほとんどの人間が起居する地域では、その現象は後続する払暁の予告として、人の希望や、新生の喜びといったものに連想づけられている。

だが、ここトワトワトを含め、ほとんどの人間が起居しない地域、地軸周辺の広大な領域において、それはうんざりするほど長く単調な薄明の始まりに過ぎず、

より極に近い地域の別の季節では、そのまま薄暮へと続く、闇のほんの息継ぎでしかないこともある。。。


朦朧とそこまで思索して、クリプトメリアは自分がうたた寝をしていたことに気づいた。

いかんいかん。


首を伸ばして眼下の谷をのぞき込むと、青白い闇の底、沢岸の草むらに横たわる大きな獣の死骸に、変わったところは見られなかった。



体勢を変えるついでに、冷え切りこわばった手足を動かし、血の巡りを促した。

苦痛を感じてはいないつもりだったが、見えない疲労の蓄積した体は重く、眠気を追い払えたかも怪しい。

若い頃は2、3日眠らなくても平気だったものだが、近頃ではたった一晩の徹夜がこたえる。

年は取りたくないものだ。


だが老練な野性観察者としての経験と分析は、この労苦が報いられるのもそう遠くないことを告げていた。

ここ一両日に到って、自分が狙う獲物の正体が何であるか、クリプトメリアはおおよその見当をつけていた。

あのアカシカの残骸を食いに姿を現したときが、その不運な生き物の最期であり、忍耐に塗り固められた任務の終了となるはずだ。


それは待望の瞬間というよりも、長い薄明の末のあかつきを見るような、今ひとつ感慨の薄い予測だった。

むしろ、今こうしている時間が終わってしまうことが、どこか残念でさえあった。


苦悩の色そのままの空、陰鬱な寒さ、現在の睡眠不足を投影したが如き、判然としない昼夜。

人がそこに何を感じようと、それもまた世界の姿のひとつであった。

人間世界のしがらみを全て棄て去ったところに初めて成立する、美しい世界だった。


アマリリスが、何の目的か不明なまま、この森を放浪し続けることも理解できるような、

むしろ、目的を必要とせずともここに居続けられることが羨ましくも思えた。

あの不遇な少女はこの異界に、この先何を見出すのだろうか。。。



眼下に動くものがあった。

音を立てないよう、クリプトメリアは傍らのライフルを持ち上げた。


・・・間違いない。

彼の予想したとおりの姿が、イタドリの茂みの奥から、囮の屍肉へとにじり寄って行くところだった。


やれやれ、これでようやく寝床で眠れる。

何はともあれ、やはりホッとした思いで、クリプトメリアは銃を構えた。


およそ50メートルの撃ち下ろし。

まず、外す心配はない。

そして申し訳ないが、この弾丸は、標的を貫通するよりもその体内に留まって、その分のエネルギーを四散させるように出来ている。

人間同士の”人道的な”殺し合いでは、国際協定によって使用が禁じられている残忍な武器だが、この相手には是非ともその威力が必要だった。


照準が、狙撃対象の奇怪なシルエットの頭部に定まり、その動きを追った。

アカシカの死骸の前で止まったのを見て、クリプトメリアは用心金の環の中に、そっと指を滑り込ませた。


何か乱暴な力によって、腕に抱えた銃が押し下げられ、引きずられて前のめりになったクリプトメリアは、思わず地面に手を突いて体を支えた。


極端に予想外なことに遭遇すると、人は驚愕よりもその解釈のために冷静になる。

クリプトメリアはしげしげと、鋼鉄の銃身を踏みつける素足を、その先に連なるものを見上げた。

この時この場所で、もっともあり得ないものを目にしたクリプトメリアの頭脳が導き出したのは、およそさらに非現実的な解釈だった。


アマリリス(?)

なぜそのような姿で??


いや、それにしては・・・


細くしなやかな印象の、それでいて弱々しげなところのない肢体。

この薄闇の中にあって、仄かな燐光を発するかと思える白い肌。

その輪郭をなぞって上がっていったクリプトメリアの視線が、豊かな縮れ髪の影で暗がりとなった女の顔と見合った。


暗がりの奥から、一対の金色の瞳が彼を見つめていた。


もう一丁の銃に手を伸ばした。

その瞬間、クリプトメリアの意識はふつりと途絶えた。

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