第287話 海霧消えゆく入り江の邑に

オロクシュマの街にも低く霧がでていた。

そこに日の光が注いで白く散乱し、遠くの山や森はよく見えるのに、近くの家並みはぼやけて見えるような、奇妙なかすみかただった。


ヘリアンサスは結局歩みをはやめて、ファーベルとアマロックの組のほうへ行ってしまい、三人の影はやがて白い霧の中に見えなくなった。

それで、アマリリスはクリプトメリアと二人で歩く格好になった。


「"海霧消えゆく入り江の邑に、、"か。


知っているかね。

マギステル宗団の高度に抽象的な旋律理論が明らかにしたところによれば、

宇宙創成の時、その高温ゆえ、一般に世界は紅蓮の炎に包まれて始まったと印象づけられているが、

実際にはむしろ、均質にして稠密ちゅうみつな霧にでもたとえられるべき状態だったという。」


「はぁ。」


「なにしろ物質が物質として定着せず、誕生の不安におののいていた有様であったから、

――あまりこういう擬人化を行うべきではないかな

熱も光も便宜べんぎ的なもので、おびただしい稠密ちゅうみつ擾乱じょうらんの宇宙空間を伝播でんぱする事もできない。

そのようなわけで、宇宙はその開闢かいびゃくを経てなお、光明も暗黒も、温熱も寒冷も存在しない、混沌の霧の海であった。」


「・・・それで?」


「長い時間、と言うべきか、あるいは比較的短期間のうちにと言うべきか。

耐え難い高密で充満していた原初の霧は、宇宙の膨張に伴って徐々に密度を下げ、ある臨界点を超えたところで、唐突に晴れ上がりを迎える。


物質は物質として定着し、光は宇宙空間を自由に直進することができるようになった。

それまでは概念でしかなかったそれらが、このとき初めて姿を現し、宇宙を制御する多様な音楽に従って運行を始めたのだ。」


「・・・」


「面白いことに、マギステル設計音譜によって書き表すことのできない宇宙唯一のもの、

人間の魂の発展もまた、これによく似た過程を辿ると言われている。


我々の精神を構成する思情、概念、願望、そして様々な知覚は、それらがそうあると感じられる以前の原始的な精神の中では、雲を掴むように捉えどころがない混沌の状態にある。

それがあるきっかけ、往々にしてその結果との因果関係を論理的に説明しにくい契機によって、唐突に色と形を与えられ、人間精神の中に現れ出る。


それらを照らす知性の光はどこからやってきたのだろう?

どこでもない、それは原初の霧そのものと混淆して、初めから我々のうちに存在し・・・」


「・・・(うへぇ)」


クリプトメリアとの会話は、親しく気の置けない一方、時折どこかよそよそしく落ち着かない。


今日もそんな感じだった。

難しい言葉が多いし、外国人のアマリリスにはだんだんわけが分からなくなり、後半は適当に聞き流していた。



白い靄の向こうへ、まとまらない思考を這わせていった。


ひょっとして、あたしも嫉妬しているのだろうか?

その考えはひょっこりと意識に浮かんだ。


そうなの!??と思って、自分の心を見つめ直してみる。

自分の心を見つめるなど滅多にしたことのないアマリリスにとって、それはちょうどこの霧のように、何だかぼやけて捉えどころがなかったが、

ただ、仲むつまじくアマロックに寄り添うファーベルに対して、たとえばに抱いていたような、後ろ暗いわだかまりは何も感じない。

ただただ、心の温かくなる愛しさがあるばかりだ。


たぶん、羨ましいのだと思った。

種族を超えた不思議な組み合わせに生まれた交流、ファーベルとアマロックの間にはあり、自分とアマロックの間にはない心の絆が。


一方で、自分とアマロックの間にはない、というところに、幾ばくかの心の痛みを認めないわけにはゆかなかった。

どういうわけかその痛みは、飢餓と抗争に苛まれるオオカミに、あるいは闇の中で独り歌う人魚に感じるものとどこか似た手触りがした。



いつの間にかクリプトメリアともはぐれてしまった。

あてもなく霧の中をぶらついていたアマリリスの目が、ふと一軒の小さな商店に止まった。

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