疫獣

第282話 他人の聲

「は。。?


・・・町?」


オウムがえしに尋ねる、誰か他人が喋っているみたいに気の抜けた声がした。


「そう、オロクシュマ・トワトワト。

ちょっと野暮用があってね。

君も行かないか。」


「・・・」


ほとんど空っぽの頭でアマロックの言葉を反芻しながら、気がつけばじっとアマロックの唇を見つめていた。


”・・・そうか、キスされてたんだっけ。。”




早く目覚めた朝、玄関のドアを押し開けるとそこは、一面の濃い霧の世界だった。


乳白色の靄のかたまりは、後から後から湧き出して吹きつけてくるようで、人間の住まいの中には入ってこず、ちょうど敷居のところで、透明になって魔法のように消えてしまう。

視界を包む地上の雲であると同時に、その奥には光を隠し、薄暗い室内に向かって手招きするようでもあった。


と、霧の奥から、柔らかな音色。

低くかすかに、けれど耳を澄ますまでもなく、それが何か分かった。

ほとんど自動的に、一面の濃い霧の中へとアマリリスは歩き出していた。


初夏とはいえ北国の朝の空気は冷たく、室内着にショールを羽織っただけのアマリリスは身震いするほどだった。

うねる霧は時おり足元も隠すほどで、周囲の様子は全く分からない。

けれど進むべき方向も、どこに向かっているのかもはっきりしていたから、迷いはなかった。


笛の音は霧の濃淡を縫うように、その源に近づくにつれて、次第にはっきりと旋律の形をとりはじめた。

その曲をアマリリスは確かに知っていた。

アマロックが以前に聞かせてくれたはずの曲。

あれはいつだったろう?

どういうわけか、寂しさや不安にも似た気持ちをかき立てられる曲。


海風が生まれ、霧が動き始めた。

トネリコの巨樹の梢が、頭上に黒々と現れる。

アマリリスはドキドキしながら、木立の奥へ分け入っていった。

旋律はさらにはっきりと、けれどまだずっと遠いようにも思える。

これで誰もいなかったらどうしよう。。。


曲が終わる。

ほぼ時を同じくして、厚い霧の幕が開いた。


アマリリスがまずホッとしたのは、トネリコの巨木の傍らにアマロックの姿を見たことだった。


「やあ、バーリシュナお姫様。」


いつもと変わらない、親しげな、どこか白々しくもある呼びかけ。


「アマロック」


その一方でアマリリスはとうとう、この得体の知れない憂愁の理由に思い到った。

アマロックが奏でていたのは、ちょうど一年前のあの場面で聞かせてくれた、

――そしてその後、一言もなく高地に旅立ってしまった、あの曲だったのだ。


そして季節は巡り、再びオオカミのワタリの時期、人間と魔族の別れの時期が近づいていた。

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