第269話 あ・・・喰われる。

イタドリの繁みをかき分けて、湖水が見下ろせる場所に出た。

湖と言っても、カヤツリグサやアヤメの繁る浮島に占領されつつある、半ば湿原のようなところだった。


はやる心で岸辺を見回すと・・・いた。

水鳥でも狙いにきたのだろうか。

しかし風が草むらを掻き分け、水面をさざ波立たせる湖水には、シギ一羽おらず、

完全にアテがはずれてしょんぼりしている(ように人間には見える)オオカミが一頭。


その毛並みは黒。


「なーんだ、サンスポットか。」


去年はずいぶん構ってやったのに、なーんだ、呼ばわりされては動物といえど報われないが、無論オオカミがそんな事を感じはしない。

アマリリスに気づいて、サンスポットはこちらにやってくる。


以前なら、何を望むわけでもなく森を歩き回っていて、それでサンスポットに出会えれば、文句なしに満足で嬉しかった。

今でももちろん嬉しい。

けれどその喜びのさなかにも、アマリリスの心はどこかうわの空だった。

そしてそんな自分の心が、サンスポットとのかけがえのない絆を裏切っているようで、アマリリスは心苦しかった。


意識して頭を喜びで一杯にし、アマリリスはサンスポットを出迎えた。


「やっほぅ〜、サンスポット。」


我ながらわざとらしい。

バカみたい。


そんな自己嫌悪の念が具象化したように、突如、黒オオカミは後肢で立って伸び上がり、その顎に並ぶ鋭い牙を閃かせながら、アマリリスにのしかかった。



あ・・・喰われる。


そう思っても、動揺はなかった。

そして実際サンスポットは、アマリリスを襲ったわけではなかった。


黒オオカミは後脚で立ち上がって彼女の両肩に前脚をかけ、こめかみから首筋の辺りをスンスン匂いをかいでいるようだ。

くすぐったい。

まるで親密な友達との抱擁ハグみたい。

どうしたの、サンスポット?


普段はあまり感じない、獣の匂いが鼻をつく。

といっても犬とか家畜の匂い、ストレートに言えば糞尿と残飯に混濁した臭気とは違って、木の葉の朽ちる匂いや樹脂の匂いを強くしたような森の匂いだ。

いい匂い。


アマリリスは妙に切なくなって、頬に触れる黒い毛並みに頬ずりして、鼻腔いっぱいにその匂いを吸い込んだ。



その日一日中、サンスポットはアマリリスのそばを離れなかった。

それは珍しいことだった。


普段であれば、アマリリスと同行するときも、サンスポットの注意は自分の関心ごとの方を向いており、

獲物の気配、臭いなどの手がかりがあれば、後ろも見ずにすっ飛んでいってしまう。

そのままはぐれてその日はそれっきり、ということも少なくない。


つまりいつもは、アマリリスがサンスポットについて歩いている構図なのだが、今日は完全に逆だった。

日が傾き、アマリリスが帰路についてもサンスポットは離れず、とうとう、オシヨロフの台地につながる尾根までやってきてしまった。

ここから坂を下ればすぐに臨海実験所。

木々の梢の向こうに、オシヨロフ湾の水面が開けている。


ファーベルやヘリアンサスも普通に行き来するようなこんな場所を、オオカミと一緒に歩くことになるとは予想だにせず、アマリリスは途方に暮れた。

まさか臨海実験所までついてくる気じゃないだろうけど。。。

本当にどうしちゃったんだろう。

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