第255話 幻ノ獣#2

アマリリスの左後方の斜面の上に、アマロックが立っていた。


「どうした、こんな所で」


アマロックはいつも通りの問いかけをしてから、アマリリスが無言で胸をぎゅっと押さえているのを見て、胸やけかい、とつけ加えた。


「やだっ、もぉ~~。

おどかさないでよ、心臓止まるかと思った。」


切れ切れに喘ぐように訴えた。

アマロックはごく普通に呼びかけただけで、普段ならそう驚くようなことではないのだが、タイミングが悪かった。

アマロックは斜面を下りてきて、悪びれる様子もなく言った。


「大丈夫、きみの心臓はこの程度じゃ止まらないよ」


「あ、ひっどい。ヒトデナシ!

いいもん、死んだら化けて出てやる。」


「それは楽しみだ」


アマロックはにやにや笑って、アマリリスのウェーブした髪を指先で撫でた。


まだ動悸と、そこはかとない薄気味悪さが残っていたが、何のかのと言ってアマリリスは内心、アマロックに会えたことで安心していて、嬉しかった。

だからアマロックが例によって脈絡もなく、何の断りもなく唇を重ねてきても、それはごく自然なことで、むしろこちらから望んだことのような気さえしていた。


唇が離れても、アマリリスはぼうっとしていた。

金色の魔族の目でアマリリスの瞳をのぞき込み、アマロックは訊ねた。


「帰るところ?」


「・・・え? あ、うん。」


「海岸まで送るよ。」


「ホント?

わーい、ありがとう!」


驚かせたお詫びに、と言って、アマロックは手を引いて歩いてくれた。

さして険しい道でもないのだが、格段に歩きやすくなって感じた。


「春だねぇ。」


「だね。」


「春、サイコー!」


「そうかい。」


「ねぇ、みんなは?

元気にしてる?」


「ぼちぼち生きてるよ。

この間会ったばかりじゃないか。」


「あの時はサンスポットだけだもん、

ちょっとだけだったしさ、途中で雪が降り始めて。」


「そうだったかな。」


「そうだったわよ。」


とりとめもなく話しながら歩くうち、海岸が見えてきた。

なだらかな谷地を流れてきた小川は、河口近くで傾斜がついて、岩盤を抉る急流となり、最後は半ば滝のようになって海に降り注いでいた。


そこを下るわけにも行かないので、二人は手前から左手にそれ、一本北の沢との間の尾根を進んでいた。

アマロックが立ち止まる。

その視線の先を追って、アマリリスは息をのんだ。


北側の沢の河口は、水ぎわまでハンノキの藪が茂る砂利の浜だった。

一面に白茶けた流木が散乱する浜に、大きなヒグマが一頭、そしてその傍らに、仔グマ。

あの足跡の主に違いない。


思ったとおり(?)、クマはさっきの沢を上った後、北側の沢に移って、アマリリスたちと並行するように下ってきていたのだ。

危ない危ない、あそこでへたに動き回ったら鉢合わせしていたかもしれない。


実験所は北の方角で、ということはクマがいる谷を横切らなければならなかった。


「大丈夫、河口で魚を狙ってるから、こっちには来ないよ。

少し上流側に避けていこうか。」


「うん。。。」


「恐い?」


「、、、ううん。」


アマロックの手をぎゅっと握った。

先にこちらが相手を見つけているので、余裕があるのと、アマロックが側にいてくれるので、実際恐くはなかった。

何というか、一人でクマに出くわすのは絶対に避けたいが、二人でいる時に襲われるなら、それはそれでまあいいか、という気分だった。


それでも無事に谷を渡りきり、次の尾根から谷を見下ろして、アマリリスはほっと安堵の息をついた。

河口では相変わらず、母グマと仔グマが、時おり吹き寄せる強い風に毛並みを逆立てながら、魚を追っていた。


日当たりの良い尾根の上では、すっかり雪も消え、枯れ草の下に緑の草葉が広がっていた。

ここまでくればもう冬に逆戻りすることはないだろう、と思う。

雪解けの後も春はまだ頼りなく、寒い日には雪となり、時には吹雪くことさえあった。

けれどもうさすがに大丈夫だろう、、分からないけど。


分からないので、今日のうちに少しばかり、春の味覚を収穫しておくことにした。

中腰で山菜をむしるアマリリスの後ろ姿を見下ろして、アマロックは尋ねた。


「今年もファーベルと遠足に来るのかい。

去年きみが迷子になったアレに。」


「んー?

そうねそのうちね。


ちなみに今年は迷子にはなりませんわよ。」


アマロックを振り返り、少しふくれっ面の笑顔を見せた。


「行くならここよりもっと南の森が良い。

ゼンマイも山ネギもたくさん採れる。」


「へー、そうなんだ。

ファーベルに言っとくわ。」


南の森。。。

その言葉が頭の中で反響するのを聞きながら、しばらく黙々と地面を漁った。


「ただし、」


アマロックは続けた。


「南の森で桜が咲いていたら、近づかない方がいい」


「桜?

トワトワトに生えるんだ。っていうか、こんな時期に咲いてるの?」


「咲いてるよ

その桜は、葉よりも先に花をつける」


「ふーん。

覚えとくわ。


でもどうして近づいちゃだめなの?」




目の前の草の上に、大粒の滴がぼたっ、ぼたっと落ちてきて、アマリリスは顔を上げた。


やられた。


頭上の空は、山の方から押し寄せてきた真っ黒な雲に覆われつつあった。

既に南の方角は、山も海も雨のすだれの中に隠れ、なにも見えない。

風も次第に強まりつつあった。


嵐が来る。

そして迂闊なことに、長い冬に慣れたアマリリスは、無雪期のトワトワトでは必需品である防水布のポンチョを、持ってくるのを忘れていた。


周囲を見回すと、いつの間にかアマロックの姿はなかった。

思えば送ってくれるのは、海岸までの約束だった。


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